そのやる気はどこから来て、どこへ行くのか

やる気(動機づけ)には外発的なものと、内発的なものがある。という話は有名である。内発的動機の場合、行為それ自体を楽しむためにすることで、報酬はその行為自体であるのに対し、外発的動機だと、行為はあくまで手段であり、報酬が得られるのはあとだ。「お金がもらえる」「人に褒められる」「仕事で成功する」「良い大学に入る」「本が売れる」なんてものは、いずれも外発的動機づけだろう。この動画によると、それぞれの特徴は以下にまとめられる。

・内発的動機だと、外発的動機よりも、長期にわたって取り組める。
・内発的動機があるときに、追加で外発的動機を与えると、やる気を失う(過剰な正当化)。
・内発的動機がない時に、外発的動機を与えるのは、効果があることもある。
・人は、内発的動機と外発的動機の両方をもっていることが多い。

この教育系(啓発系?)動画を「内発的動機が重要」「外発的動機はあくまで補助的に」と雑にまとめることもできる。となると、内発的動機をいかに持つか(あるいは、人に持たせるか)が重要になるのだが、ここにはパラドックスがある。自分や他人に持たせることができないのが、内発的動機ではないのか?

いくつかの論点を提示したい。

そもそも、趣味やゲームのような楽しい行為を内発的な動機によるものとするなら、それこそゲームのように課題(タスク)を設定しまえないか? ゲーミフィケーションの発想。よい依存と悪い依存、というメタレイターはあるが、メタレイヤーを保持すれば、良い依存を誘発する社会的ゲームを開発できないか。できる派とできない派がある。私は、できるところもけっこうあると思うが、人間にとって大事な領域をゲーム的に設計してしまうのは、たとえできたとしても、やるべきではない派。

人類の文明は、遅延報酬性に耐える訓練によって築かれてきた。農耕からしてそうである。今目の前の食べ物を食べたい、という内発的な動機(? 本能? 衝動?)を文化と教育の力でおさえて、食べ物を育てることでより大きな報酬を得る。報酬を遅らせた分、報酬を増やす。という外発的動機である。労働と消費の乖離がある(マーク・フィッシャー的)。ただ楽しむだけでは、生産は増えない。それとも、資本主義はこの乖離を克服したのだろうか? 享楽的資本主義とでも呼ぶべき何かになったのか。資本主義の享楽というか、享楽が資本主義を成長させるという。

我らがHIKAKINは「好きを仕事に」YouTuberをやっているが、果たして内発的動機だけで生きていけるのか? もし生きていけるとして、生きていくのが良いのだろうか? あらゆる外発的動機を内発的なものへと読み替える脅迫的なプレッシャーが、そこにはないのか。あるいは、外発的動機を内発的なものに読み替えることができたものこそのみが、真の「自己実現者」(成功者)になれるのか。

ただ楽しむことを楽しみたい。誰かに設計されたわけではなく。利潤とも切断されて。しかし、本当にそんなことは可能だろうか。利潤と切断する必要はあるのだろうか? ウェブサービスで自分の考えを公開すること自体は、(たとえ記事が無料だったとしても)利潤から切断されているわけではないだろう。

自分は何で書いているのだろうか?(面白いから?)では、自分は何で生きているのだろうか?(面白いから?) 面白くなくなったら、辞めるのだろうか? サルトルの考える自由は、自由に選べるという状況に放り込まれるという絶対的な不自由さと、一体化している。サルトルは自由だ自由だと言うが、読めば読むほどサルトルの自由は不自由だ。なんでサルトルに突然言及したかというと、最近、図書館に行っては書棚にあるサルトル『存在と無』をちびちびと読むことにハマっているからだ。借りて家で読むのではなく、図書館の机で、気になった節をつまみ読みする。遅々として進まないが、読みたいところただ読むので、楽しい読書である。自由といえばサルトルだよなと思って読み始めたものの、サルトルの考える自由は、どうやら私たちが考えるような自由ではなさそうだぞ、というところまではわかった。で、たとえ人生がそれ自体として面白くなくなっても、私たちは生き続けるほかないのだろう。

私は書くのが楽しいから書いているが、書くのが辛いことも多く、それでも書くのは、選び続けるサルトルの自由とちょっと似ているのかもしれない。(そんな大したものなのか?)


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