「弱い責任」は弱い他者への責任――戸谷洋志『生きることは頼ること』講談社現代新書

とても大切なことを、とてもわかりやすく丁寧に書いている。良い本である。

サブタイトルは「「自己責任」から「弱い責任」へ」とある。キーワードは「弱い責任」だ。私たちが責任と聞いて連想する、「自律した一人の個人が自己決定し、その結果を自分で引き受けること」を戸谷は「強い責任」とする。強い責任は、近代的・理性的・啓蒙主義的な人間像に結びつく。強い責任は、サッチャーの「社会なんていうものは存在しない」、日本における自由市場開放の原理、さらにはイラク戦争の人質事件での「自己責任論」などを経て、現代の資本主義社会の「道徳」の地位にすら昇り詰めている。自己責任は、責任の排他性(誰かが責任を一人で引き受けなければならない)を前提としている。しかし、國分功一郎の中動態が示す通り、責任の源泉にある個人の意志なるものは、責任を発生させる出来事の結果から遡行的に作られたもの、「堕落した責任」ではないのか、と筆者は続ける。

責任を論じるとき、「誰か責任をとるのか」という責任主体ではなく「誰に対して責任をもつのか」という責任の対象が大事なのでは、とハンナ・ヨナスの哲学を引きつつ、筆者は続ける。気遣われるべき弱いものへの責任は、目の前の他者を助けるという個別的命令だけではなく、「責任の可能性への責任」、すなわち前の前の他者を今・自分が助けられなくても、他の誰か助けられる人を用意するという責任(存在論的命令)も含む。存在論的命令は、個別的命令よりも、根源的である。こうして他者を気遣う(ケア)する存在は、しかし、自分は誰かに依存しなければならない。この依存は、ケア対象からケアされることは期待できない以上、社会にいる他の誰かによって担わなければならない(これがキテイの指摘だ)。

筆者は、最後にジュディス・バトラーの『非暴力の力』の議論を紹介する。気遣うべき弱い他者とは誰か? どうやって決まるのか? と筆者は問う。あらかじめ「この人は気遣うべき他者」「この人は気遣わなくてよい他者」と区別していないだろうか?(哀悼可能性をまえもって相手にあてはめていないか?) 他者を消すと自分が存在できない。自己は他者と相互依存している。この原則から、哀悼可能性の不平等性を平等にしていこうという態度を説く。なぜかといえば、ケアする/ケアされるには父権主義が入り得るから(必ずそうなる、というわけではない、という慎重な留保は必要だが)。

と、私なりに要約したのだが、筆者は章ごとに簡潔なまとめを記しているので、私の要約すら不要である…。

以下、考えたことを2つ。強い責任が前提とする意志→(結果)→責任は、科学的(物理的?)な発想である。方程式があって、変数に数を入力したら、結果が出力される。この方程式を無限に組み合わせることで、複雑な世界すら記述してしまおうという発想が、科学にある。(複雑系や不確定性原理というのもあるが…)人間が、粒子的というか、外力によって運動する物体としてイメージされている。(近代科学が啓蒙主義と関係しているから、といえばそうなのだろう。)突き詰めていけばSF的な発想になる。もっとも、SFが問題とするのは、意志や結果の制御不可能性であるが。

バトラーの哀悼可能性という概念は勉強になる。しかし(、と続けたくなるので続けるが)いつも通勤で使う駅で泣いている子供がいたらなんとかしようという気持ちになるが、ガザ地区でイスラエルの攻撃によって家を破壊され泣いている子供がいたら、なんとかしようと思うけれども何をどうすればよいかわからず、途方にくれる。これで良いのか? 途方に暮れることを続けると、「学習性無力感」なんていうものもあるが、自分よりも離れた世界にある人のことをなんとかするには、「強い主体」や「強い責任」による「強い介入」が必要なのでは? と思ってしまう(もっとも、その結果がたくさんの戦争なのだろうが…)。哀悼可能性は、有限で、偏りが発生してしまうのでは? というのが私の問い。


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