学習とは「学習の中断」であるーー神代健彦『「生存競争」教育への反抗』(集英社新書)

社会の生存ユニットとしての家庭や、学校卒業後に子供が参入する社会が、学校教育に期待するものが、あまりに過大ではないだろうか。と、問いかけることから筆者は語り始める。現代日本(世界)の先行きが不透明で、不透明であるからこそ、要求されるものがますます抽象化・高度化している。「コミュニケーション力」やら「問題解決能力」やら、「○○力」に期待されるものは、ほとんど超能力のレベルであると、筆者は述べる。確かに、人類の叡智が解決できない問題を解決できる人材を学校内外の教育で育てることができたら、人類はこんなに困っていないだろう。

抽象化し高度化する教育、その先にいる子供への要求は、教育社会学ではコンピテンシー(能力)という言葉で表現される。これは従来の知識・技能の「詰め込み」から、学習者の主体的な学びに焦点をあてたもので、学校での学びが社会で役にたつという実感(有用性)を持たせることにもなる。一見すると、硬直化した教育の「再生」にも思えるが、お掃除ロボットが自分と環境のフィードバックで掃除を適切に行える様子と似ているのではないか? と筆者はビースタという教育社会学者の指摘を引用する。社会での問題解決やイノベーションを期待して、ダウンサイズしステップに分割した教材を学校で子供に訓練させることは、子供のコンピテンシーを育てている、という名目で、子供を社会に最適化させているだけではないか?

筆者が提案するのは、「子供と世界が出会う場所」としての教育である。世界は世界であって社会ではない(社会よりも広く、もっと雑多だ。)社会(会社?)で役に立つ・立たない、というモノサシではなく、単に世界そのものと触れること、その機会を用意することが教育の目的ではないのか。ただし、完全に社会から断絶した教育も不可能だろう。教育は学校という制度を必要とし、学校という制度は税金なりなんなり社会からの納得と資金が欠かせないからだ。そこで筆者は、間々田孝夫の消費論を参照しながら、「超商品としての教育」を検討する。豊かな消費者を育てることも教育の目標ではないか。消費者がいなければ生産者もいないし、消費者が豊かであればいずれその中から豊かな生産者も生まれるであろう(「豊か」という言葉は、私なりの言い換え)。

と、大雑把な要約になってしまったのは、読み始めたら一気に読み終えてしまう、そんな面白い&刺激的な本であったからだ。2020年の本。〇〇力化していく社会、コンピテンシー化していく社会にモヤっていながら、かといって「資本主義の外部」に出られるわけでもなく、さてどうしたものかと悩んでいたところに、少しの光が見えたのかもしれない。そう思わせる本である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?