歴史とは時の蓄積ーー辻田真佐憲『ルポ 国威発揚』中央公論新社

サブタイトルは「「再プロパガンダ化」する世界を歩く」。洋の東西を問わずナショナリズムや伝統がとかく参照されがちなこの時勢に、ネットのプロパガンダ分析はあたまあれど、歴史的モニュメントに足を運んで「世界を歩き」ながらプロパガンダについて論じる本書はユニークである。

現地に行かなければわからないことは、思った以上にあると、読んでいて気付かされる。アクセスの悪い場所にある場合は、タクシーを使ったようだが、タクシーの運転手とのやりとも本書の見どころの一つである。その土地の空気を感じられるやり取りである(タクシー運転手もビジネスでやっている、としても)。

たどり着いたモニュメントや史料館の「作り」も現地に行かないとわからない。ひょっとしたら写真だけならネットで見つけられるかもしれないが、どこに置かれているのか、どのように飾られているのか(飾られていないのか)、モニュメントは何で作られているのか、碑文の字は読めるのか、建物なら大きさ・内容・展示物・解説・パンフレット(日本語、外国語の表記など)などなど。辻田の描写は丁寧で、現場に行ったからこそのものであり、この丁寧さに人々の「歴史を語る」という意味が見えてくる。

碑文の文字は消されることもあるし、手入れされていなければ自然に風化してしまう。戦前はナショナリズムの文脈で作られたものは、戦後は左派に維持されたものすらある。モニュメントは「永遠」を目指して建てられるのだが、あらゆる歴史的遺産がそうであるように、ほうっておくと朽ちていく。手入れをするにも、誰がどうやって手入れするかで、建てられた時とは異なる意味を帯びてくる。歴史は時の蓄積であり、Googleで検索して見つけたデジタルな写真にはぜったい映らない厚みがここにある。

国威発揚には上からと下から、押し出すポジと打ち消すネガがある、と筆者は分析する。この四象限はなるほど、と思うが、筆者も強調するように四つの領域ははっきりわけられる訳でもない。モニュメントを舞台にそれぞれがせめぎ合っている、というのが実態だろう。簡単な分類ができない深み・厚みがあることは、筆者のルポからよく伝わってくる。

奴隷制を肯定しているからという理由で像が倒されるなら、アリストテレスも含まれうるだろう(と筆者は言う)。過去の歴史を批判することは当然だが、求められるのは撤去することではなく、意味づけを変えていくことなのだろう。ただし意味づけはどのようにでも意味づけられてしまうので(英雄なのか? 犯罪者なのか?)、だからこそ歴史を学ぶのは大事、となる。

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