「人擬きの感覚」とどうしようもない自己――藤井義允『擬人化する人間』(朝日新聞出版)

文芸評論家・藤井義允の初単著。「脱人間主義的文学プログラム」がサブタイトル。「小説トリッパー」に2020年から2022年に連載されていた原稿をもとに1冊にまとめたもの。扱う作家は、朝井リョウ、村田沙耶香、平野啓一郎、古川日出男、羽田圭介、又吉直樹、加藤シゲアキ、米津玄師。各作家論に入る前に、社会状況論、現代文学概論が入る。1990年代から2020年代の、社会・文化状況を概観し、論じられる作家・作品たちが位置付けられる全体像(地図)が示されている。

一読して感じたのは、思っていた以上に「ディストピア」という言葉が使われていたな、というものだった。論じている作家は、どちらかといえば文学に分類される作家たちだが、私が『ディストピアSF論』で作品を論じながら掘り下げていった社会状況は、これら日本の作家も多分に共有しているのだと理解できた。『ディストピアSF論』では平野啓一郎の『ドーン』を論じていて(あと朝井リョウの『何者』には少し言及したが)、それ以外の作家・作品は、藤井の評論を読む限り、ディストピア状況における(最後の?)人間主義の試み、ともいえるだろう。

藤井が考える現代的な個人主義(脱人間主義)とは、➀「正しさ」の不在、②形而上学の失墜、➂唯物論的人間像、➃意識のコントロールである。SFと親和性が高いのは、➂や➃であるが、SFだけが描ける、というわけでもない。面白いのは、各作品が「人擬きの感覚(どうしようもない自己)」を表象していながらも、「脱人間」とイコールではないという指摘。人間と脱人間のあいだ・はざまをどうしようもなく漂う様子に、現代的な個人主義がある、というのだ。(これは私がSFで「ポストヒューマンのヒューマン的苦悩」と呼んだものに近いだろう。)

と書くと、私がやたらSFと関連付けて読んでいるように思われるかもしれない(実際そうとはいえ)。しかし、本書は現代の日本作家を扱っている評論である。どこに現代の日本らしさがあるのか? と言えば、私はそれを又吉直樹、加藤シゲアキ、米津玄師の論に感じる。近代日本文学が自然主義と私小説を合体させ、作家である「私」を虚構化し、ある意味で自身をメディア化することで、物語を紡いだように、これらクロスメディア的な現代作家は、変化しつつあるメディア環境を取り入れながら、物語を紡ごうとしているからだ。これらの(カッコ付)「作家」を含めたことで、本書の射程がぐっと広がったのではないか、と思う。

個人的には、ネット環境におけるビジュアルコミュニケーション全盛だからこそ、テキスト的な物語(文学?)の価値というか役割が、重要なのではないかと思う。だからこそ筆者の考えに共鳴しつつ、どう一歩、進めていけば良いのか悩んでいる。


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