自立は孤立ーー栗田隆子『ぼそぼそ声のフェミニズム』(作品社)
「女だから」という理由で差別・抑圧されることに「否」というのがフェミニズムだ、と筆者はいう。ただ筆者が提唱する「ぼそぼそ声のフェミニズム」は、その「否」の言い方が違う。「女だから愚かだ」という構造的抑圧に「女でも愚かではない」そして「愚かでない女は差別・抑圧に抗する」というのは、有能力と意志がある。「女が愚かとされるのは社会構造の問題である」とするのは、個人の問題を不問にし、できる・できないの原因を社会に求める。筆者の考える「ぼそぼそ声のフェミニズム」は、このあいだ、できる・できないという個人の状態はあいまいなまま、棚上げにして、「愚かであること」を否定的に評価する社会にむけ「男だろうと女だろうと愚かであることは、ほんとうに問題なのか」と問う。
この背後にあるのは、「自立は孤立である」というある女性の言葉を筆者が引用しているが、「自立」という言葉・概念がかつてもっていたような開放・独立のイメージが、いまや義務・責任へと変化してしまった社会がある。筆者は、上の世代のフェミニストが性別役割分業の問い直しを通して、女性の自己実現を目指したことを評価しつつも、自分たちの世代の特有の(新しい)問題として強迫的な「自己」像を指摘する。自分一人で完結し、スキルと能力によって適切に管理する対象としての「自己」。理想の自己は仕事を通じて(のみ)実現される、実現するべきだと強迫的に個人は思い込むが、むろんその背後には脅迫的に迫る社会がある。
できる・できないという軸とは切り分けたところに自己があり、その自己を自分だけではなく社会もまた認める…ようになるには、どうしたらよいのだろうか?(答えは私にはわからない。考えることを続けていく。)
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