【2025年】昭和100年に想うこと
来たる2025年にて、昭和100年を数えるのだと話題になっていた。
たしか今年のお正月頃のことだった。
その話を耳にして、自分も昭和生まれなものだから、ああ昭和はどんどん遠くなって行くなぁと、少し寂しく感じたものだ。
それと同時に、昭和時代という戦争を差しはさんだ激動の時代を、遠のかせ忘却させてはいけないであろうにと、軽い焦りを感じてしまった。
それでわたしは、この機会にその方面の書物などを探し集めて、いろいろ読み味わってみようかと考えた。
だがしかし、直後にその考えは改めた。
それは、
書物になっているものは、今後も読み継がれていくことが出来る。
それに対して、昭和の生き残りの一般の方々の生の声は、その方々が亡くなってしまえば、歴史の彼方に埋もれて消えてしまう。
そういう生の声を集め聞いてみたいと思ったのだ。
何を隠そうわたしには、100歳のLine友達がいる!
関東大震災の1か月後に瓦礫の中で産まれたという、その人は、昔のことをとてもよく覚えていらして、お茶を飲みながらいろいろなお話を聞かせてくださる。
生きて来られた歴史の長さだけでなく、貧しく混乱した激動の時代を乗り越えたその1年1年は、現代の平和な時代の1年とは全く違った重みがあると、切実に思う。
しかし今回は、その人のお話を書こうと思っているのではない。
(そのお話は、またいつか)
言いたいのは、昭和の歴史と共に長く生きて来られた方々のエピソードは、現代では得難い体験記であり、メッセージ性の強いものであるという点だ。
そしてまた、昭和の時代の負の一面だけでなく、明るく元気な正の一面も、記憶に留めたいと思ったものだ。
という訳で、
お正月以降、わたしは新聞や雑誌などの記事の中から、特にご高齢の一般人の方の投稿やコメントを切り抜いて、半年のあいだ集めてきた。
今回はそれをご紹介しつつ、自分の想いも織り交ぜたものをお読みいただけたらと思う次第。
おそらく、少し長めの文章になる予感がするので、お忙しいかたは以下太字の引用部分だけでもお読みいただけたら有難く思う。(→5370文字でした)
◇◇◇◇◇
古い昭和は、学ぶことの自由を選択できない時代だった。
そんな一面をのぞかせる投稿がこちら。(抜粋)
「父の優しい絵」 田中詠子さん(70歳)
父は絵が好きだった。描くのも見るのも好きだった。私たちの誕生日には、それぞれの絵を描いてくれた。
父が若い頃「美大に行きたい」と言ったら、祖父に「戦争中に何を言うか」と一蹴されたらしい。だから「自分の子どもには好きなことを勉強させたい」と言っていた。
父は、子どもの使い古しの絵の具で風景画を描いたり、年賀状に絵を描いたりしていたが、父の作品はどれも上品だった。
「美大に行きたい」は、現代でも相変わらず親が反対しがちなワードのようだが、美術系の学部が増えたり専門学校が創設されたりして来た近年は、やはり進歩的と言えるのではないだろうか。
学ぶことと将来の職業が切り離せない現実がある中で、いかに折り合いをつけるのかは、今後も変わらぬ親子のテーマなのかも知れない。
続いては、読書の自由について触れた投稿がこちら。(抜粋)
「今だからできた『源氏』書き写し」 高山裕子さん(85歳)
先日「源氏物語」54帖を書き写し終えました。「源氏物語」を原文で読むのは10代からの夢でした。
若い頃は育児や夫の父母の介護でせわしく、本ははばかるような気分で読んでいました。高齢になり時間ができたから書き写しが可能だったのでしょう。年を重ねるのも悪いことばかりではないと思いました。
おしゃれをして遊び歩くわけでもない「読書」すら、はばかるようにしていたなんて、わたしには耐えられない。
様々な行いが、常識と良識の範囲内で認められ、権利が保障される現代社会にあらためて感謝したいと思う。
続いては、許され与えられることに慣れてしまった現代人への戒めを語る投稿がこちら。(抜粋)
「市民の手で政治変える第一歩を」 久保絢子さん(89歳)
殊に忘れられないのは、社会科の若い女の先生の言葉だ。私は中学2年だった。
「過去の歴史を学んで、同じあやまちを繰り返さないこと」
「日本は今後、絶対に戦争をしてはいけない」
「大人になり選挙権を得たら必ず投票に行くこと。選びたい候補者がいない時は、不適切と思う人から消して最後に残った名を書きなさい」
まさに平和主義、民主主義のイロハをしっかり教えて下さった。
政治への諦めや冷笑から投票を棄権する人に言いたい。その行為は今の政治を肯定することになると。
戦争を知る政治家が減り、憲法や平和国家の理念が消えてしまった。市民の手で政治を変える第一歩を担いたい。
女性に参政権(選挙権)が与えられたのが昭和21年だというから、約80年前の話だ。また男性に対して、身分に関わらず選挙権が与えられたのは昭和マイナス1年(大正14年)のことで、約100年前。それ以前は納税額が多い者にしか与えられてなかった。
そんな歴史を振り返ると、現代の選挙制度がいかに平等公平なものかと、あらためて理解する。
同時に、それを当然のこととして胡坐をかいていた自分に気づいた。闘争の末にそれを勝ち取った原始民主主義の時代の市民の熱量はどこに行ったのかと、反省とともに我が身を恥じた。
与えらえることに慣れてしまうのは恐ろしい。
さて、昭和というと、後半は高度成長期で日本が元気イッパイだった時代でもある。現代とは異なる社会構造の中で、労働のコンセンサスも整わないまま、誰もががむしゃらに働いて稼いでいたのではないだろうか。
そんな時代に、今では考えられない働きぶりを語る女性の投稿がこちら。(抜粋)
「元気真っ盛り 愉しかった昭和」 中根玲子さん(79歳)
約50年前、昭和の元気真っ盛りで毎年給料が増え、イケイケドンドンの時代。私が外資系銀行の課長の頃、部下が電話で相手の怒りを買った。
「上司に代われ」と言われ、私が出た。すると「男だ。男に代われ」と居丈高。私は冷静に「かしこまりました、男に代わります」と、4月に入社したばかりの青年に受話器を渡し「男です、と答えなさい!」と告げた。
当然混乱し、結局私と話す事になった。たまたま専門的によく知る事例だったので、各方面に手配して問題は解決した。すると先方は態度を改めて、菓子折り持参で飛んできて、私への非礼を詫びた。
昭和の「不適切」がいろいろ指摘されるが、あの頃の男性には潔さがあった。「なんちゃらハラスメント」はいろいろあったが、言う方も本気の悪気はなく、受ける方は知恵と強気で軽くかわし、昭和は元気で楽しかった。
なにやらモーレツぶりが伝わるが、もう1人の女性は同じ頃の時代を満喫気味に働きながら、後の世の若者たちへの憂いを感じ、その気持ちを投稿していた。(抜粋)
「昭和53年入社組の一人の思い」 玉田友子さん(68歳)
昭和53年(1978年)入社の同期会参加のため、大阪へ出向いた。右肩上がりだった会社の話で盛り上がった。今なら「不適切にもほどがある」事案は数知れず、ブラック企業という言葉も無かった。
大卒後、何もわからない私たちを会社は育ててくれた。パワハラ、セクハラにも遭わず楽しかった時代に感謝した。
「もはや戦後ではない」と言われた年に生まれ、良い時代を生きたと思う反面、今の若い人たちに申し訳ない気持ちがする。私たちのような楽しいひとときを持てる未来があるのか?私たち世代は責任を果たせたのか?自然環境や国の体質が変わりつつあり、不安が膨らむ。
令和の現在と比べると、埃まみれで脂ぎった感のある昭和。
どちらの時代がよかったのかは、生きた人それぞれかも知れない。
両方の時代を生きた者は、比較することが可能だが、昭和を知らない若い世代は、それも叶わない。
しかし、時代の流れが多くの人にとって、必ず良い方へ向かうものであってほしいと思うのは、誰しも共通の願いだ。
この先は、何があっても決して逆流したくない戦争の昭和の話。
戻らないためには、忘れないこと、語り継ぐこと。これを綴る投稿がこちら。(抜粋)
「教室の空気変える 祖父の日章旗」 本郷賢さん(36歳)
2011年に亡くなった祖父は私を可愛がり戦時中の話もしてくれました。
私が小学校教員に採用された際、その祖父が日章旗を私に託しました。
「祈 武運長久」と大きく墨で書かれ、仕事で取引があったという「松下幸之助」の寄せ書きもありました。
祖父は出征直後に終戦を迎え、結果戦地に赴くことはありませんでした。
歴史の教科書を見ていたある時、1枚の写真が目に留まりました。出征をみなに祝われ、あの日章旗をたすき掛けして敬礼する若人。祖父の旗の意味を初めて知りました。
6年生で戦争の授業をする際は、祖父の旗を子どもたちの前で広げます。教科書の中の遠い話が、肌で感じられます。「出征する人はどんな気持ちでこの旗をたすき掛けしたのか」、次々に子ども達から問いが出てきます。
祖父が私に日章旗を託した理由が分かったような気がしました。
現代を生きる若い教員のかたが、祖父の形見を教材として戦争の授業をするなんて、これこそが一番の生きた教育ではないだろうか。
平和な未来へ、一縷の望みを感じる。
戦争の悲劇を綴った作品や報道は多く、その悲劇は誰もがある程度は知っている。亡くなった本人は無念であるうえ、孤児や未亡人のご苦労は死ぬより辛いものであったと、よく耳にする。
星の数ほどあるエピソードだが、たった1つだけあまりにも美しく哀しい投稿(抜粋)と、短歌がこちら。
「父の南十字星を訪ね 比島へ」 藤井初代さん(81歳)
「南十字星が美しい晩だよ」。これは戦地フィリピン・ルソン島から、父が母と私に宛てたはがきの一節です。
私が生後10か月のとき出征した父は、広報によると1945年5月に27歳で戦死。母は生前、父の最期が常に心の片隅にありました。
私も父が見た南十字星が見たいと思い立ち、昨年、娘とルソン島に向かいました。慰霊碑に手を合わせ、見上げれば美しい青空。幼子と妻を残し、生きて帰れないと悟ったときの心情を思うと涙が止めどなく流れました。
死亡告知書に記された死因は「胸部貫通銃創」。それが本当で、苦しむ時間が短かったのなら少し救いがあります。南十字星の下、安らかに逝ってくれたと祈るばかりです。
出征の父に向ひて挙手の礼 二歳の吾は涎掛けして
古田明夫さん
戦争の悲劇は、国を問わず令和の現在も続いている。
人質の四人を救出するために 二百七十四人を殺す
篠原俊則さん
ここで戦争を論じるのはよして、この話はこれでお終いにしよう。
最後にとても明るい話。
NHKの朝ドラで現在放送中の「寅に翼」でお馴染みの主人公「寅ちゃん」のモデルとなった三淵嘉子さんは、女性初の弁護士の一人で女性初の家庭裁判所所長という立ち位置で、戦後の昭和に活躍したかただ。
こうなると半分は歴史上の人物みたいに感じてしまうが、その三淵嘉子さんと一緒に仕事をしたという人の投稿がこちら。(抜粋)
「少年のため 三淵嘉子さんと共に」 荻野郁夫さん(91歳)
私は東京家裁の調査官として、三淵さんと組んで少年事件を担当しました。
50代の三淵さんと、まだ青年の名残がある30代の私は、年齢的にもいいコンビでした。
家裁の審判は裁判とは異なり、少年をいかに良い方向へ向かわせていけるかが大切で、三淵さんは少年の問題点を押さえるのが的確でした。ユーモアもあり、時に審判廷が和むこともありました。ある時は、私のことを「怖いお父さんみたいだったわね」と言い、私が「優しいお母さんのようでした」と返し、2人で「まあ!」と笑い合いました。
その後、浦和家裁所長になられ、私も浦和に異動になりました。現場のにおいをつかみたかったのか所長自ら事件を担当し、そこでもご一緒しました。とても心ひかれ、奥深く魅力的な方でした。
こういうのを生き証人というのだろうか。
遠くなったと思った昭和が一気に近く感じられるのが不思議だ。
◇◇◇◇◇
この半年間に集まった投稿は、名も無い一市民のものばかりで、本にされることも無く、溢れる情報の中で明日にも埋もれて行くだろう。
けれども、今この瞬間も共に生きているこの人達の生の声を、わたしは心に刻みたいと思う。
いつか、そう遠くない未来に、昭和を語る人間は(自分も含めて)この世からいなくなる。そんな日にも、文学の中に描かれ、歴史の上に語られて、伝えられていくものであってほしいと願う。
そういうものの中で、人の良心や希望が育まれていくと思うから。
(おわりに)
今回は、たまたま縁あって出会えた投稿記事を、個人的な思いの元に展開したもので、内容には偏りがあり昭和を総括するに至るものでもないと考えます。
にもかかわらず最後までお読みいただき、ありがとうございます。
2025年の昭和100年を迎えるまで、まだ半年あります。
どんな昭和に出会えるか、投稿記事やコメントをもう少し探し集めてみたいと思います。出来れば年末あたりに、第二弾の報告記事を書きたいです。