「型にハマった人間になりたくない!」
そう思うのは「ハメる」という単語にどこかマイナスイメージがあるからだろう。
最近話題の推し活など「ハマる」という自発的で積極性がある自動詞に対し、「ハメる」という他動詞はどうも他人に操作や制限をされ、陥れられるような危うさを感じさせる。
慣用句としては「羽目を外す」「破目になる」など、サザエさんで例えるとカツオが調子に乗っていらぬ事件を起こし、サザエにゲンコツを喰らい
「そりゃないよ~ 姉さ〜ん!」と泣きっ面を浮かべ、タラちゃんが得意げに「羽目を外すとこういう破目になるですぅ~~」とオチを付ける回を彷彿させる(ないわそんな回)
名詞を挙げてもハメルンの笛吹は不気味だし、ハメ撮りは卑猥だし、かめはめ波は元気玉に威力の面で劣る。
こうしてみるとハメることに何らメリットを感じないのも仕方がない。
しかし、最近「ハメる」ことの必要性をひしひしと感じてきた。
「色んなジャンルの文章が書けるようになりたい」と思う反面、書けない。
読書量や知識不足という点は勿論だが、「型にハマった文章なんて書きたくない!」と基本的な構成や思考方法、テクニックやノウハウを疎かにして、学ぶことを避け続けてきた結果である。
「基本を疎かにすると応用が効かない」
文章だけでなく、スポーツや仕事、生活全般において、ものごとに対しどのような態度で接し、生きていくかということにも当てはまるような気がする。
型について調べていくと、文化を伝承するという意味合いでも「型・形」を重視する剣道の教え「守破離(しゅはり)」という言葉に出会った。
人の取るべき態度や考え方、師弟関係の在り方を示しており、身につまされる思いがしたので紹介したい。
あらゆる物事には順番がある。
「かたにはめること イコール 創造性を失くすこと」ではなく、オリジナリティを確立する為には欠かせないステップであると考える。
物事の「かた」は先人たちの知恵や努力と経験の結晶であり、消失することなく現在まで引き継がれているのは「真理」であることの裏付けだと言えないだろうか。
誰でも一度は目にしたことがある、ピカソの奇天烈な絵画。
5年前、渋谷のオークションで10億円で落札されたらしい。
初めて見た多くの人が「何これ!! こんなの私だって描けるわ ww」と思うだろう。
だが彼が幼少期に描いた精巧すぎるデッサンを見て愕然とする。
「えっ、 ピカソってちゃんとした絵も描けるんだ!! めっっちゃ上手いやん!!!」(何故か上から目線)
オリンピックのオープニングや紅白でも披露された型の無いダンス形式、コンテンポラリーダンス。
これも素人が踊ると、とち狂った形相の、てんてこ舞(まい)と化す。
芸人や、ダンスセンスのない素人の「踊ってみた」動画がYouTubeやTik Tokで流行ったのはプロと余りにかけ離れた様子がシュールで滑稽だからだ。
彼らが自分の絵をえがき、自身のダンスを表現するまでに、どれだけ既成のかた(型、形)を踏襲してきたか想像に難くない。
一流ほど基礎をもっとも重視し、何度も基本に立ち返るという話を聞いたことがある。
「基本が出来なければ応用することは出来ない」
当たり前のことだが、つい忘れてしまう。
当たり前のことだからすぐに忘れてしまうのかもしれない。
今一度、自分のためにおさらいしよう。
自分の「型」を確立する為には、基本をしっかり学ばねばならない。
(かったるいけど)
基本を踏まえた上で試行錯誤し、自分に合う方法を模索する。
(かたひじ張らずに)
基本型を離れ、オリジナリティを確立する。(かためよう)
私がこれから創造していく型はどんな形になるだろう。
もしかするとダジャレだらけの文章になるかもしれない。
昭和の人にしか分からない小ネタばかり使うかもしれない。
だがそれは定型の構成ではなく、個性と呼べるものなのかもしれない。
最後まで型のない、ガタガタな文章で、全くかたじけない。
🍀あとがき🍀
私はダジャレを言いたいが為に書いているのかもしれない。
くどいくらい盛り込んだダジャレの数は12個。
暇な人は数えてみてほしい(そんな奴はダレジャ!)
そもそもダジャレは貴族の嗜み、和歌の掛詞として使用されていたものが語源らしい。
その中で洒落てないものに「駄」を付け駄洒落(ダジャレ)としたとか。
それならば私のエッセイはただの駄文だ。
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エバ@エグくて優しいエッセイスト🖋
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