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じゆうのこ_桜庭一樹『私の男』

私の男は、ぬすんだ傘をゆっくりと広げながら、こちらに歩いてきた。(p6)

桜庭一樹『私の男』文藝春秋

以下は、桜庭一樹著『私の男』の本筋に触れます。本作品はインセスト・タブー(近親相姦)を題材にしており、プロットやストーリーの面白さとは別に、「受け付けない」「理解できない」といった評価をされることが多い作品です。

けれど、私はここでインセスト・タブーの社会学、倫理学、生物学的な是非ではなくて、ひとりの人間とひとり人間の尊いつながりを言いたい。以下の棒線から次の棒線はあらすじです。


2008年、腐野花が養父である腐野淳悟を連れて、婚約者である尾崎美郎と食事をするレストランへ向かう場面から始まる。『私の男』は、東京でうっそりと絡み合うように生きる現在から過去へ遡り、北海道は紋別へ、花が淳悟と過ごす日々を回想する話だ。

津波によって家族を失い、災害孤児となった小学4年生の花は、花の遠縁を名乗る腐野淳悟という男に引き取られる。当時、淳悟は25歳で、北海道の海を見守る海上保安官であった。花は淳悟に引き取られ、紋別で暮らし始める。花は、紋別に暮らす地域の人々に見守られながら、淳悟と2人で暮らそうとするも、中にはそれを心配する人物も少なくなかった。その代表が大塩という老人である。大塩は、淳悟の性格や、浮気を繰り返す女性関係に不安を覚え、花との同居に反対していた。ある日、大塩は花と淳悟が暮らす部屋を窓から愛撫しているふたりのすがたを目撃し、ふたりも大塩のすがたを認める。淳悟と引き離されるのではないかと恐れた花は、淳悟が海に出ている間に大塩を割れた流氷の上におびき寄せ、陸から切り離し、流して殺害する。そのことを知った淳悟は、花を連れて東京へ逃げ、隠れるように生活を始めることとなった。なんとか平穏に過ごす日々も長くは続かず、ふたりのもとに紋別警察署の刑事を名乗る田岡が訪れる。田岡は、花が大塩の失踪に関連する人物なのではないかと疑っていたが、淳悟は花を守るため、田岡を殺害して部屋の押し入れに隠してしまう。

そんな過去を持つ花は、淳悟を愛し、肉体関係を持ちながらも淳悟と離れなければならないという思いから尾崎と結婚し、ふたりで暮らした部屋を出ることになった。ここで、先述した花と淳吾と尾崎の3人で食事をする冒頭場面に繋がる。尾崎との新婚旅行を終え、ふたりの住む家へ帰ると、淳悟のすがたはなく、押し入れにあったはずの田岡の死体もなくなっていた。そこへ、紋別にいたころ淳悟が付き合っていた大塩小町という女性がやってきて淳悟は「死んだ」と告げる。


この概要には重要な情報が抜けている。実は、震災孤児になる前、花が実の親だと思っていた人は養親であり、淳悟は養父ではなく花の実父なのだ。繰り返しになるが、やはり『私の男』は正真正銘、はっきりと実父と娘のインセスト・タブーを描いている。

腐野淳悟という男・腐野花という女のピュグマリオニズム

(ピュグマリオニズム、あるいはピグマリオニズム、ピグマリオンコンプレックスは簡単に言うと「人形を性愛の対象とすること」。ロリータやインセスト・タブーなど、カバーする範囲はわりとひろいので興味をお持ちの際はぜひ調べてみてね)

「私」である腐野花は、「私の男」である腐野淳悟を「傘盗人なのに、落ちぶれ貴族のようにどこか優雅だった。これは、いっそうつくしい、と言い切ってもよい姿のようにわたしは思った。(p6)」「優雅ではあるけれどみじめな男(p7)」などと形容する。それは養父である人物に向ける言葉としてはいささか違和感がある。花は淳悟といるとき、常に「すこしの軽蔑(p7)」と「言葉にならない、いとしい気持ち(p7)」と相反する感情を抱き、「離れなくては(p19)」「離れられない。そばにいたい(p21)」と葛藤していることがうかがえる。しかし、「ぬすんだ傘」を強く咎めない花は、淳悟を受け入れていることを暗に示している。
加えて、「ずいぶんむかしに、この男の欲を自分の義務のように感じて、おうじていた時期があった。(p24)」と述べ、上記に列挙した花の葛藤は、このインセスト・タブーに起因するものであることが分かる。インセスト・タブーとピュグマリオニズムは深い関係にあるが、『私の男』は、2人のピュグマリオニズム的な関係が反転するという特異性を持つ。

 淳悟は花が結婚する前の「三年ほどは働いていない(p22)」。「最初の十年ちょっとはわたしが子供で、淳悟が働いて育ててくれたから、ただ静かに役割を交代しただけとも言えた(p23)」ということから、【(過去)花=子供、淳悟=大人】と【(現在)花=大人、淳悟=子供】という立場の反転が見られる。この倒錯によって、共依存的なピュグマリオニズム関係が構築されていると言える。

花と淳悟のピュグマリオニズムの倒錯

ふたりの立場の倒錯がなぜ起こったのか、という点について考えてみたい。そのためには、ふたりのピュグマリオニズム的な関係はどのようにして醸成されたかを見ていく必要がある。

 それは淳悟の生い立ちが関係する。淳悟の母親は厳しく、淳悟は花に自身の母親のことを話すとき「吐き捨てるような声(p325、p364)」であったという。母親の愛情を感じることができなかった淳悟は、花に母親を重ねていたのではなないか。

 過去を遡り、花を引き取って養子縁組をした後の描写を見てみる。淳悟は花を連れて自分の両親の墓に訪れ、「ものすごく、さびしい。……たえられない(p365)」と言う。墓に訪れた日から、花を性的に触れるようになった。花を掻き抱きながら「血の人形だ……。血の人形だ……(p366)」と呟くシーンは印象的だ。

 そもそも、ピュグマリオニズムの発端となった『ピュグマリオン』は、自らがつくりあげた彫像に彫刻家が恋をする神話である。花を引き取った当初、淳悟は花を自分が理想とする母親の像、言い換えるならば人形として、花をピュグマリオニズムの関係に引きずり込んだという点は『ピュグマリオン』と類似する。だからこそ花は、「夜のあいだだけ、こっそりと大人になったような気持ちだった。大人だけど、人間じゃなかった。わたしは淳悟の娘で、母で、血のつまった袋だった。娘は、人形だ。父のからだの前でむきだしに開いて、なにもかも飲み込む、真っ赤な命の穴だ──。(p369)」と感じたのだ。

子供のころの花は、育ててもらう対価として「この男の欲を自分の義務のように感じて、おうじ(p24)」ることで支払っていた。共依存関係を想像させる一方、花のこの言葉からは、支配・被支配のような上下の関係もまたうかがわせる。

では、花と淳悟のピュグマリオニズムの倒錯が起きた要因は何だったのか。それは、ふたりのピュグマリオニズム的な関係、つまりインセスト・タブーを他者に知られたことによって引き起こされた2回の殺人によるものである。

 花は紋別で大塩を、その後淳悟は東京で大塩の犯人を捜してやってきた田岡を殺害している。『私の男』は時系列を遡る形で展開されるため、読者は2人の過去にあった誰か(大塩)の死を感じつつも、はじめに淳悟による田岡の殺人を目撃する。「もう、どうなってもいい。一度も二度もおんなじだ。(p153)」と包丁で田岡を刺した淳悟は、丁度学校から帰ってきた花の頭を撫でながら、自分を見つめる花の目を見て「同じだな(p155)」と思う。

(花の)瞳は濁って、唇には色がなかった。ぽっかり空いた暗い穴のような目玉がふたつ、なんの表情もうかべずにただこちらに向いていた。怒りも悲しみも、焦りもなんにもない空洞のようなものが。見ているうちに、自分も同じ色で濁り始めたのがわかった。足元に転がる死体。からだの中心から力が抜けて、もう二度と立ちあがれないような気がした。(p155)

桜庭一樹『私の男』文藝春秋

人形を思わせる形容が何箇所もあることが分かる。そして、淳悟による田岡の殺人は、明らかにそれまでの淳悟との一線を引いた。「一度も二度もおんなじだ。(p153)」という言葉は、これから行う殺人をむりやり納得させるための詭弁にすぎない。

淳悟は花を守るために田岡を殺害したということが明らかとなり、田岡殺害の原因は、花による大塩の殺人であることが分かる。紋別にいたころ、大塩は腐野から籍を抜くことを迫り、そのことに対して花は「……殺す。(p211)」と明確な殺意をもって、大塩を流氷に乗せて流した。そして、「人を殺したら、おとうさんがわたしの神になった……。(p237)」のである。ここでは、神である淳悟、(実は血の繋がった)父である淳悟に所有される人形としての自分を受け入れていると言えるだろう。

しかし、ふたりの支配・被支配のピュグマリオニズムは倒錯する。先述した通り田岡を殺害した淳悟は、花と「同じ(p155)」となるのだ。

淳悟の消息と血の人形からの解放

花が結婚するころ、「淳悟のこころはさらに脆くなっていった(p25)」という。そして、花が結婚式を挙げ、新婚旅行から戻ってくるとふたりが住んでいた部屋は「もぬけにから(p53)」になっていた。そこへ、花を引き取る前から淳悟と交際していた小町という人物が現れて、「この地上から消えた(p61)」と告げる。

後は好きなようにしてくれ、って言われたのよ。じゃ、死んだことにしちゃってもいいの、あの娘、きっと泣くわよ、って聞いたら、どうでもいいさ、好きにしろよ、って笑ってたの。それで、煙草くわえて、ふらっとどっか行っちゃったわ。(p60)

桜庭一樹『私の男』文藝春秋

 小町の発言が真実かどうか、淳悟がどうなったのかを知る者はいない。「壊れた(p63)」淳悟は、花の結婚に耐えられなくて命を絶ってしまったのかもしれないし、小町が「死んだとでも思われて、もう、ほうっておいてほしいのよ。あんたのそばから消えたくなったってことでしょ。(p60,61)」と言うとおりなのかもしれない。しかし、ここに淳悟なりの花へのまっすぐで優しい愛情を見ることはできないだろうか。

 小町の言葉を信じられない花は、淳悟の「ずっと、逃げてるんだ。そばにいても、離れても、変わらない。俺たちは、これからだって、二人きりで、逃げているんだ……(p62)」という言葉を反芻する。しかし、現実に淳悟は花の前から消えてしまった。それは、花を自分とのピュグマリオニズム的な関係から、そして血の人形から解放したいという淳悟の気持ちによる選択だったのではないだろうか。だからこそ、『私の男』では「結婚」という、新たな血縁を結ぶ儀式を描いた(と私は思いたいんです泣)。

父親と娘のインセスト・タブーについて論じたジュディス・L・ハーマンは『父─娘 近親姦「家族」の闇を照らす』の中で、メイビス・ツァイの子どものころ性的虐待を受けた女性への調査結果を用いて、性的虐待の長期的影響について、以下のように述べる。

永続的な傷を受けずにすんだ女性の多くは、彼女たちの性的トラウマを乗り越え、統合するのを助けてくれた特定の人物がいたと答えている。(中略)また、辛抱強い恋人たちがいて、セクシュアリティを再び自分自身に取り戻すことを助けてくれた。

ジュディス・L・ハーマン『父─娘 近親姦「家族」の闇を照らす』

 つまり、尾崎との結婚は花が淳悟とのピュグマリオニズム的な関係から脱出しようとする意志の表れと淳悟は受け取ったのではないだろうか。加えて、淳悟の欲を自分の身体という対価で支払うことができた花とは違い、花と「同じ(p155)」になった淳悟は対価として支払える何かを持たないのである。

花が結婚するころになると、淳悟は隣人に絡まれた花を「いきなり叩くなんて、いやなやり方で庇(p24)」ったり蓋が開かないというだけで瓶を「台所に打ちつけ(p25)」て割ったりするなどの行為が見られ、こころが脆く壊れかけていることが分かる。この淳悟の衝動的かつ暴力的な行動は、紋別にいたころは見られなかったものであり、花は以下のようにかつての淳悟を振り返る。

日々の仕事に追われながら父母会に顔を出して、慣れない手つきでちいさなお弁当を作り、洗濯をし、元気がなければうろたえ、気軽な一人暮らしの部屋にやってきたちいさな闖入者に振り回されていたあの若い男の顔を思い出して、わたしはひっそりと笑みを浮かべた。九歳の女の子は、二十五歳の青年にとっては、悪魔だった。それを必死で育てようとしていたあのころは、彼の人生の中でもっとも多忙な時期だっただろう。(p12)

桜庭一樹『私の男』文藝春秋

 そして、淳悟は「柄にもなくあんなにがんばったのも。やけに楽しかったのも(p13)」と述べるのだ。このふたりの気持ちと言葉からは、淳悟にもともと備わっていたあたたかさが、相手を思う人としての温もりが、感じられる。

 こころが脆くなっても、壊れても淳悟は花の幸せを望むために、自分がすがたを消すことで花を自由へと解放したかったのではないだろうか。

『私の男』を過去に遡っていく形式にしたことで、壊れた淳悟になる以前の淳悟のすがたが描かれるようになり、逆説的に壊れた淳悟の根底にある花に向ける慈愛のような愛情と花のピュグマリオニズムからの解放を印象づけるものとなっている(と私は思いたいんです泣)。

『私の男』に描かれる最後のシーンは、花と養子縁組をし、家族用の公務員宿舎に引っ越すシーンである。花は、引っ越しの手伝いに来ていた淳悟の友人から、花を引き取るにあたって大塩と淳悟が「みなしご争奪戦(p743)」をしていたということを知る。

「めずらしく、がんばってたらしいじゃないか。親父がおどろいてた」
(中略)
「そりゃがんばったさ。あんなに本気になったのは、海上保安学校の卒業試験以来だ」
(中略)
「じつはこいつ、練習したの」
「練習?」
「昼間っからうちの店にきて、カウンターでさ。ほら、就職試験の面接みたいに。親父さんにああ言われたら、こう答える。こう突っこまれたら、こうかえすって。笑顔でしゃべってるけど、唇の端がずっとぴくぴくしてたよ。(中略)……しかし笑ったよ。こいつ、妙に一生懸命なんだもん。女どもに見せてやりたかったよ。ありゃあ、百年の恋も冷めるって」(p275、p376)

桜庭一樹『私の男』文藝春秋

確かに、淳悟の欲を義務のように感じて応じていた花への性的な接触は、インセスト・タブーとして多分に問題を含んでいた。しかし、このような淳悟の花へのひたむきさは、ただ性的な対象として娘を見ていたのではないこともまた事実のように思われる。『私の男』という物語を過去を遡る形式にしたのは、淳悟がただ娘を犯したおぞましい存在としてではなく、出来事の積み重ねの末に形成された結果であるということを印象付ける。これらから、壊れてしまってもなおひとりの娘の父親として、娘の幸せを願う淳悟のすがたも見ることができるのではないだろうか。

『私の男』は、新しい「家族用」の家に歩いて向かうシーンで終わる。過去に遡る形式であれば、花と淳悟が出会う始まりのシーンで終わると考えるのが一般的であるが、なぜこのような中途半端なシーンで物語が終わるのか、注目してみたい。

甘えるようにまたてのひらに力をこめたら、淳悟も優しくぎゅうっとしてくれた。(中略)朝陽が眩しくって、だんだん、その顔がよく見えなくなった。おとうさんがどんな顔をしていたのかたちまち忘れてしまいそうだった。かわいた海風に吹かれながら、もっと強く手を握った。すると、淳悟も痛いほどしっかりと握り返してきた。
この手を、わたしは、ずっと離さないだろう。(p381)

桜庭一樹『私の男』文藝春秋

花のこの言葉で『私の男』は終わる。先に淳悟と淳悟の仲間との会話を引用したが、この最後に描かれたシーンには穏やかな空気が感じられる。新しい環境に向かっていくシーンで物語が終わるのは、やはり『私の男』がインセスト・タブーを犯した親子の暗さを描くだけの作品だけではないことを強調している(と私は思いたいんです泣)。

今回は、私が14歳の時に出会い、捻れ拗らせトルネードした大好きな作品についてのお話でした。
インセスト・タブーと殺人に注目されがちな花と淳悟だけれど、私はこのふたりが好きだ。
 周りにどう思われようと、ふたりの世界でふたりだけの関係のなかでふたりだけの愛のかたちがあるということ。彼らの関係性は、苦難の多い今を生きていくなかで、とてもあたたかくて尊いものだと思うのです。

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