よろこびは、口笛とスキップとともに
春の訪れのよろこびを、口笛とスキップとともに伝える子どものような心を保ちましょう。と恩師が言った。いつも、アーユルヴェーダってインディジョーンズみたいだよね、と言う先生だ。
古典医療の世界の入口は、海の波打ち際のように広く、訪れる人を誰も拒んだりしない寛容さがある。そして、はじめに学ぶことの多くは「既に知っている」と懐かしさを覚えるようなことばかりだ。
ただし、勇気を出して足を踏み出し、海底へと潜っていくと、そこには考えもしなかった人の生命の誕生や成長、心と肉体の形成や破壊が見えてきて、先生が言ったように歩みを進めるにつれて、果てしない冒険をしているような気分になってくる。
道の途中で、その瞬間にははっきりと理解できない問題に出会う。ノートに書き留めて、ポケットにしまったらそこにとどまることなく歩いていく。そしてある日、ふとした瞬間に「わかる」ときがくるのだ。それはまるで、天から花びらがひらひらと舞い降りてくる春のひとときのように。
アーユルヴェーダを知ると、シンプルながら続けていくことで着実に自分の健康のベースアップになるアイテムがいくつもある。もちろんその健康法に間違いはないのだけれど、実践すること自体が目的になり、無理矢理守ろうとするとかえって緊張感を生み出し、アーユルヴェーダを続けていくこと自体が一つのストレッサーになっている人を時々見かける。
ごま油を白湯に、キッチャリーを一杯の味噌汁に、身近なもので代用しても良いのに「アーユルヴェーダらしいこれでなければ」とこだわりが強くなるあまり、それ自体がなければ足を止めてしまう人がいる。アーユルヴェーダの良さを伝えたいと躍起になって、肩肘張った言葉で声高に叫んでも、疲れている人は耳を傾けてくれない。
この学問には、目の前の問題を潰すようにして無理に進むのでは決して得られない独特の味わいがある。容易には前に進まない道の険しさを、勇気を持って冒険と捉え、前に進む人だけに見られる景色があるように思うのだ。
それが私自身、わかるようになったのは、三軒茶屋にスパイスカレーとチャイを出す店を構えて1年半が経った今日この頃のこと。
仲間と作ったコワーキングの玄関口にあるこのキッチンには本当に様々な人が訪れる。私のことをアーユルヴェーダの料理家でカウンセラーだと知っていて、わざわざ訪れてくれる人よりも、このまちで働く人や、ご近所さん、ただカレーが好きでくる人の方が多い。
私はカレーを気に入ってくれて食べに来ているだけの人に、アーユルヴェーダの話はしない。近所の美味しいご飯屋さんや、最近見た映画、週末の過ごし方とか、そんな他愛もない話をして、本当によく笑っている。気のいいお客さんが多いのだ。このキッチンにはいつも笑いが溢れている。
中には、寝る直前にチョコレートを食べる人もいるし、仕事を休んだまま毎日がずっと日曜日状態の人もいるし、仕事が好きすぎて全く休んでないで睡眠がぐちゃぐちゃの人もいる。
それでも私は彼らに正しい睡眠の話なんてしないし、人生の目的を説くこともなく、消化力を大切に、なんて言わない。アーユルヴェーダに夢中になり、その世界で無理やり自己を見出そうとする人もよりも、大きな声で笑って、自分の幸せが何かわかって生きている人の方が健やかさを感じるからだ。
私は彼らと他愛もない話をしている時ほど、ずっとわからなかったアーユルヴェーダの世界の小さな問いが急に解けて、天から花びらが落ちてくるのを目にした瞬間が何度もある。その度に、子どものように駆け出して、口笛とスキップでそのよろこびを伝えたくなる。
冒険を歩むのに必要な熱意は「こうでなければ」と背中を縮めて本を読んでばかりいても生まれて来ないのだ。