なかぬざわ

フィクションですlove https://twitter.com/ryunguad

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最近の記事

下積みのねぇバンドがロックではないように、俺達も下積みをしねぇとペインターではないんじゃねぇの?

俺は絵を描いているが、その絵は社会に対して何か意味があるのか、何か呼応している部分があるのか模索する。模索しているという現状で満足している様な気もして、迷っているフリをしているのかもしれない。 自分の作品が直接、今の社会問題を風刺をしたり、批判することはないだろう。ただ、間接的に政治体制や社会情勢に反応はせざるおえない。ニュースや本、社会情勢はなるべく見るようにする。1つのメディアを頼らない。色々なジャンルの事に興味を持つ。頭にどんどん情報を入れていく。その情報がインストール

    • ぶんぶーん

      連日の阿呆みたいな暑さで日中は外に出る気がしない。夜になって少し涼しくなってきてから動き出す。家に居るだけで何もしていないとエアコンだけが稼働して財布から小銭がちびちびと逃げていく様な嫌なイメージを抱く。先週は愛知までバイクで出かけていた。深夜の新東名をぬるりと飛ばして案外近いなと思ったりした。深夜に東京に帰ってきて、スタンドでガソリンを入れてるとあまりの静けさに驚いた。4時間、レブリミットに近いエンジンの爆音を響かせ帰ってきていた事に気付いた。もしかしたらこいつ、くそうるせ

      • 春夜

        2週間程の宮城のレジデンスから帰ってきて1週間ほど経った。東京は温かい日が気がする。住んでるところは東京だが、ほぼ埼玉といっても問題ない、武蔵野なのだから。宮城の帰りに大宮で友達と日高屋で中華を食べた。その時はすごく暑く感じた。久し振りに立ち寄った大宮も、なんだか少し変わっていた。友達が近くで働いているらしいから、たまには会ってみたいなと思った。  帰ってきてから、バイトとバイクの教習で空いた時間は彼女とだらだら過ごしている。お腹が空いたら外に食べに行ったり、彼女が何か作った

        • 雑記(長編)

          個展に際して、書き溜めていた雑記をまとめて公開することにした。息継ぎとの交換ノートにも思っていることなんかは書いてはいるが、それよりももっと独り言みたいなものである。偏見や視野の狭さ、など見苦しいものがあると思われるので注意して欲しい。これを読んだあなたが嫌な気持ちになったとしても、それは私とあなたの考えの違いであり、私の考えを押し付ける意図や傷付ける意図がないことは理解して欲しい。ただ私は自分の考えを述べているだけで、その考えも案外容易く変わっていく。その変わっていく前の段

          Hi-Fiする

           際限なく続く道程で、過去の再現を行う。繰り返される過程の中で少し違うものが現れては、本当に違うのかと疑問を抱く。生活を雑に、食を粗末に自分を大切にしないのはいつものことで誰かの為にでしか生活ができない。喫煙所で正しく呼吸ができている。吸える環境にいるとなんとなく吸ってしまうが、まだ20代だから、辞めなくてもいいかなと思う。だらだら生きれば、後70年くらいはあるだろう?着々と人の寿命が伸びて、そんなにすることあるんだろうか。アパートの近くの薬局は菓子パンとカップラーメンしか売

          息継ぎ、芹澤美咲、中澤龍二での座談会テキストデータ

          中澤 「じゃあはじめます。」 息継ぎ 「うーんじゃあ展示のことを喋るかまず。」 芹澤 「うん。」 息継ぎ 「まあ今回はどうやって……。経緯。」 芹澤 「soilでの中澤展に私がきて、もともと友達だった二人に出会った、という感じ。」 中澤 「中澤展きっかけ……。みたいな感じ。」 息継ぎ 「でまあ、やることになり……。なんで俯瞰っていう言葉が出てきたんだっけ。あんま記憶ないな。」 芹澤 「わかる。」 息継ぎ 「なんだっけ。」 中澤 「誰が言い出したの?」 芹澤 「中澤さんじゃない

          息継ぎ、芹澤美咲、中澤龍二での座談会テキストデータ

          中澤龍二 個展『翳』に寄せて

           早いもので今年もあと少しで終わりである。師走となると街をゆく人も浮足だっているような気がして落ち着かない。  今回は『翳』というタイトルの個展を今回は開いているがテーマやステートメントが緻密に建てられているという訳ではない。どちらかというと気持ち的にはラフな展示である。吉祥寺という町は以前から通っており、百年は高校生の頃にも何度か足を運んでいた。その上、今年の9月にも吉祥寺で展示があり来る頻度は高かった。だが何回も通っても自分の居場所には決してならない。自分の居場所がどこに

          中澤龍二 個展『翳』に寄せて

          『Kの逡巡』に寄せて

             絵画には画家の視線が現れている。具象画でも抽象画でも画面に現れているものは画家の視点を通したものである。画家は自分の見たものや経験から画面を構築する。画家はどんなに客観的な視線を得ようとしても結局は自分の視点を通さなければならない為に主観的な画面を構築せざるを得ない。それは文学といった他の芸術作品にも共通している。  今回の展示タイトルである「Kの逡巡」ではKという自分以外の視点で絵画を構築することをテーマに制作した作品を展示する。そもそもKとは文学作品によく登場する匿

          『Kの逡巡』に寄せて

          美術史に沿うということ

           絵を描いていて自分が美術史上、どんな立ち位置で絵を描いているのか作家なら当たり前かもしれないが考えている。自分の描いている絵が「〇〇さんっぽいですね」「〇〇さんから影響を受けているんですか」と言われるのは絵を描いて展示をしていけば誰しもが言われることである。自分のルーツを知れるということは美術史に沿って絵を描けているという安心を与えてくれる。近い世代の作家達で交流していれば尚更、自分と似た様な絵を描き、マーケットとして育った土壌に立っているのに疑問を持たないでいる。そこには

          美術史に沿うということ

          カラーひよこ

          昔はよく縁日の露店ではカラーひよこが売られていた。 赤や緑、ピンクのカラフルなひよこたちは私たちのような子供には愛らしく、お小遣いで買えるような値段であり露店のおじさんからよく買って帰った。 色が違えば、他のひよこも集めたくなるもので周りの友達は何羽も買っていて私はうらやましいと思った。私も露店では何匹か買ったことがあるのだが大体は直ぐに死んでしまった。だが一度だけ鶏になるまで育った雛がいた。 雛の成長は早く、三週間もすれば普通の鶏になる。化学染料で染められた羽は抜け落ち

          カラーひよこ