三千世界への旅 縄文26 天武天皇と海の民つづき
天渟中原瀛真人の「瀛(おき)」とは
もうひとつ気になるのは、先に紹介した天武の諡(おくり名)、つまり死後に付けられた名前「天渟中原瀛真人(あまぬなはらおきのまひと)」にも、海に関わる「瀛」(おき)という言葉が入っていることです。
あまり見ない字ですが、意味は海・大海だそうです。
小林恵子の『白村江の戦いと壬申の乱』によると、この字は「えん」とも読み、道教の神仙思想で東方海上にある聖地のひとつ、瀛州山に由来するとのこと。
つまり彼は幼児から海・海人と関連する名前で呼ばれ、死後も海・大海の真人つまり道教でいう達人と呼ばれたわけです。
そこにはただ道教の価値観が反映されているだけではないような気がします。彼が海に関して卓越した能力や実績がある人でないと、こんなふうに呼ばれないのではないかと思うからです。
大海人と阿曇比邏夫のすり替え
小林恵子は『白村江の戦いと壬申の乱』の中で、『日本書紀』には大海人皇子/天武天皇の行為が、阿曇比邏夫に置き換えられて記されている部分があると語っています。
たとえば、将軍大錦中阿曇比邏夫連が、軍船170艘を率いて百済王子・豊璋を百済に送り、天皇の勅によって豊璋を百済の王に就かせ、百済再興のために活躍していた高官/軍人・福信の背中をなでてその功績を褒め、爵位や禄物を賜ったというくだりです。
先にこれを紹介したとき、僕はまるで天皇の代理みたいで、軍人の行為としては違和感があると言いましたが、小林恵子はこれが実は大海人皇子の行為だったというのです。
その根拠として彼女は、その後の壬申の乱で大海人の元に駆けつけた息子の高市皇子を頼もしく思った大海人が、「皇子をほめ、手をとり、背中をさすって、『しっかりやれ。油断するでないぞ』と言われ、乗っていた馬を賜り、軍事のこといっさいを皇子におまかせになった。」というくだりをあげています。
この背中を撫でる、さするという動作は大海人の個人的な癖だったのではないえと小林は言います。
白村江の戦いのとき福信の背中を撫でたのが阿曇比邏夫だったとしたら、福信も百済の宰相ですから、不自然で偉そうな行為になりますが、天皇の弟である大海人だったとしたら、納得できます。
天皇の代理として半島に渡っていた大海人
それではなぜ『日本書紀』で、こんなすり替えが行われたのでしょうか?
小林恵子は後に天皇になった人物が、軽々しく本土を離れて国外に出掛けたと書き残したくなかったからだとしています。
それも一理あるかなという気はしますが、僕はそれ以上に、白村江の戦いで惨敗し、百済の再興に失敗した責任を大海人に負わせないためではないかと推測します。
小林によると、白村江の戦い自体に大海人は参加していないとのことなので、敗戦の直接の責任はないということになりますが、それでも大海人が半島に渡っていたとしたら、阿曇比邏夫と阿倍比邏夫の両司令官の上に立つ立場だったでしょうから、直接敗戦の責任はないとしても、大きな汚点にはなるでしょう。
敗戦後、百済王・豊璋は、元々百済の宗主国で、ずっと親密な関係にあった高句麗に逃げ込んでいますが、これは豊璋がヤマトを見限ったということであり、国王として百済を再興するというヤマト・中大兄の方針が失敗したことを意味します。
大海人が半島に赴いて百済再興を指揮していたとしたら、彼はこの失敗の責任も負わなければならなくなります。
『日本書紀』はこれを避けて、大海人/天武を偉大な天皇として描くために、こうした事実の改竄を行なったと見ることができるのではないでしょうか。
大海人皇子と海人の関係
しかし、この『日本書紀』における大海人皇子と阿曇比邏夫のすり替えがわかったとしても、なぜ彼が「大海人」と呼ばれたのかについては、何も明らかになりません。
そこで僕はもう一歩踏み込んで、元々大海人皇子は海の民、阿曇一族と何らかのゆかりがあったのではないかと考えてみました。
たとえば彼の母親の血縁に阿曇一族がいて、彼が海人の家で生まれたとか、幼少期を過ごしたとしたら、「大海人」と呼ばれる理由になります。
ただし、『日本書紀』には天武は天智の「同母弟である」とありますから、天智と同様、父は舒明天皇、母は皇極(息子の孝徳天皇が早逝したのでもう一度斉明天皇として即位)ということになります。
この記述が嘘でないかぎり、大海人の母が阿曇一族という説は成り立ちません。
ただ、元々『日本書紀』には嘘が多いので、一度「同母弟」を疑ってみるのも悪くないかもしれません。
そういえば、天智天皇の巻にはまず父は舒明天皇、母は皇極天皇であることが書かれているのに、天武天皇の巻は天地の同母弟とあるだけで、舒明・皇極の名前はありません。
ちなみに小林恵子は『白村江の戦いと壬申の乱』の中で、そもそも大海人と中大兄が兄弟だったというのも怪しいとしています。
となると、大海人/天武は天智の異母弟で、彼の母は阿曇一族の出身だったか、あるいは彼自身が阿曇一族で、後に朝廷で頭角をあらわし、天皇になってしまったので、そのことを隠す必要が生じたといった可能性を考えてみるのも、そんなに荒唐無稽ではないような気もします。
阿曇一族の中で育った可能性
大海人母が阿曇一族だった場合、当時は母系社会で、子供は幼少期に母親の元で育てられましたから、大海人が阿曇一族である祖父や伯父・叔父、従兄弟などに囲まれて育った可能性があります。
大海人は若い頃から阿曇一族が実務を担っていた外交や交易、ヤマト王権に従わない地域への軍事遠征などにも参加し、活躍していたかもしれません。
『日本書紀』に彼が「若い頃から武勇にたけ」ていたとあるのが事実なら、なんらかの軍事行動で手柄を立てたことを反映していると思わるからです。
それは大化の改新で蘇我氏と戦ったときのことなのかもしれませんが、『日本書紀』の蘇我入鹿暗殺・蘇我一族との戦いのくだりには、中大兄と中臣鎌足が出てくるだけで、大海人は出てきません。
その後ヤマト王権を巡って起きた陰謀や、謀反人の粛清にも彼の名前は出てきません。
大海人の経歴が謎な理由
天武のプロフィール紹介にある、天文・遁甲(占星術)に優れていたという部分も、海を渡る時に星座の位置で船の位置を測る航海術となんらかの関係があると思われるので、それが事実なら彼が航海術に長けていた可能性もあるのですが、これも同様に、彼の実績を削除したことで、見えにくくなってしまったと考えることができます。
『日本書紀』を疑うなら、そもそも大海人は天皇の家系の出身ではなく、阿曇一族の頭領の家に生まれ、下剋上的に出世して、中大兄/天智の娘を妃に迎え、天皇まで上り詰めたという説もあり得そうですが、これは異母弟説以上にタブーでしょうから、正史に書かれるはずもありません。
こうした可能性を考えていくのは楽しいですが、僕はそもそも縄文から弥生時代、古墳時代を経て、どんなふうに倭が大和、日本という民族・国家になっていったのか、そこにどんな海外からの渡来勢力が関わり、縄文人やそのカルチャーがどう変質しながら、どの部分が残っていったのかといったことに興味があるので、彼の出自に関する推理はこの辺にして、大海人皇子/天武天皇にどれだけ海人的な価値観があったのかについて考えてみます。
天智と天武の路線対立
僕は小林恵子が言うように、大海人が白村江の戦いの時点で、皇太子だった中大兄皇子の代理として外交使節として軍団と共に海を渡り、百済王子を送り届けて即位させ、福信に宰相としてのお墨付きを与えたというのはあったのではないかと思います。
『日本書紀』がその行動を阿曇比邏夫に置き換えたのは、大海人を失敗した白村江の戦いや百済との外交から切り離したかったからでしょう。
しかし、それを失敗の恥辱から彼を守るためと考えるより、そもそも百済救済・再興のために唐・新羅と敵対し、戦うという中大兄の政治路線から彼を切り離して書くためだったのかもしれません。
なぜなら、その後の展開を見ればわかるように、大海人は中大兄/天智の路線から離れていき、天智の死を待ってその路線を覆すことになるからです。
『日本書紀』は、天武の意向によって編纂された史書ですから、大海人/天武寄りの視点で書かれていますが、あくまで日本の、そして朝廷のオフィシャルな歴史書ですから、天智の考えや功績を否定するわけにもいきません。
天智と天武という古代ヤマトの二大リーダーが対立していたとか、ヤマト王権のポリシーが壬申の乱で百八十度覆ったというのは隠したいというのが、『日本書紀』の立場です。
大海人/天武が即位後、政治の大転換を行ったことも、天智路線を否定しないように語らなければならなかったことが、『日本書紀』のこの時代の巻で多くのことが隠され、多くの嘘が語られている理由なのでしょう。
海人のグローバルな価値観
天武の大転換は必ずしも、彼が唐のシステムを心底正しいと考えて受け入れていたとはかぎりません。
東アジアの国際政治状況から、大国・唐が主導する当時なりのグローバリゼーションの流れを受け入れるしかないし、それが国家の発展のためになると判断したから行われたものなのかもしれません。
そこには、百済に固執して唐に抵抗した天智よりもグローバルな視野があります。
その視野には、弥生時代・古墳時代から海を越えて活動してきた、海の民の視野や価値観が影響しているようにも思えます。
彼の出自・血統に直接海の民が関わっているかどうかはわかりませんが、『日本書紀』が百済再興・白村江の戦いのときに半島に渡った彼の行動を阿曇比邏夫に置き換えたことも、彼が海の民の一大勢力だった阿曇一族と密接な関係にあったことを物語っているのかもしれません。
縄文のその後を追って、気がつけば奈良時代の手前まで来てしまいました。
これからも日本文化の基底に隠れている縄文的なものを探していきたいと考えていますが、次回からはもう一度弥生時代の終わり頃に戻って、倭・ヤマト・日本という国や民族、文化がどんなふうに生まれたのかを考えてみたいと思います。