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三千世界への旅/アメリカ30   ボブ・ディランと反抗の時代3



早死にしたアーティスト


アメリカ60年代のミュージシャンには、早死にした人たちが何人かいます。

前に少し触れたように、ジミ・ヘンドリクスとジャニス・ジョプリンは1970年の秋に相次いで死んでいますし、ドアーズのジム・モリソンは翌年に死んでいます。

モリソンはスピルバーグやコッポラと同時期にUCLAの映像クラスで学び、その後バンドとしてデビューして、病んだ精神や黙示録的な世界観を歌うことで、時代を象徴する存在になったアーティストです。

『The End』という曲が1979年にコッポラの映画『地獄の黙示録』のテーマ曲に使われたり、彼の半生が1991年にオリバー・ストーンによって映画化されたりしたので、後の世代にも知っている人がいるかもしれません。

1965年夏のニューポート・フォークフェスティバルで大ブーイングを浴びた、ディランの伝説のステージでギターを弾いたマイク・ブルームフィールドは彼らより長生きしましたが、1981年に37歳で死んでいますから、やはり早死にと言えるでしょう。


生き急いだ若者


彼らの死因については、ドラッグのやりすぎとか、酒の飲み過ぎで寝ている間に吐瀉物を喉に詰まらせたとか、いろんなことが言われていますが、根底には、反抗の時代に世の中とあまりにも正面から戦って、生き急ぎ、死に急いでしまうようなマインドのようなものがあったのかなという気がします。

ドラッグのやりすぎや酒の飲み過ぎも、そういう自分を死に駆り立ててしまう生き方の一部だったのかもしれません。

アンディ・ウォーホルの映画に起用されて時代のアイコンになったモデル、イーディ(本名イーディス・セジウィック)も、ドラッグと酒に溺れて早死にした1人です。


そういう生き方、死に方をするアーティストは、19世紀末の詩人ランボーやロートレアモン、20世紀初頭のラディゲなど、1960年代に限らずいろんな時代、いろんな国にいますから、60年代に固有の現象ではないとも言えます。

しかし、あの時代の熱狂的な反抗のムードと、とらえ難い巨大な体制に逆らうために、自分を死に駆り立てようとする若者たちの、矛盾を抱えたマインドが多くの人たちを、破滅的な生き方に導いたとは言えるのではないかと思います。

60年代にはアーティストに限らず、政治・社会でも破滅的・自爆的な行動をと人たちが少なからずいました。


生き延びたディラン


一方、反抗の火付け役だったディランは、60年代半ばにコンサート・ツアーで観客からブーイングを浴び続け、66年のツアーが終了すると、ライブ活動をやめ、自宅とスタジオに引きこもって曲の制作をするようになります。

イギリスではビートルズもほぼ同時期にコンサート活動を停止し、71年の解散までスタジオでの楽曲制作に活動を限定しています。

彼らのライブからの退陣と入れ替わるように登場したのが、ジミ・ヘンドリクスやジャニス・ジョプリン、ドアーズなどでした。彼らはディランやビートルズ、ローリング・ストーンズなどの先輩たち以上に、時代のムードを煽りたてながら、自分を死に駆り立てていき、70年代が始まると同時に次々死んでいきました。

彼らと対照的に、ディランは楽曲の制作を続け、1970年代半ばからはライブ活動も再開しています。


ディランを救ったもの


ディランも60年代半ばにはドラッグをやり、酒に溺れたりしていたようですし、それがある意味、自己の破壊と再生を伴うアーティストとしての創造活動を可能にしていた部分もあるのではないかという気もするのですが、彼がそういう破滅型の創作活動で実際に死ぬところまでいかなかったのはなぜでしょう?

たまたま成り行きでそうなったのかもしれません。

彼の変化があまりにも激しかったので、ついてこれないファンたちがブーイングを浴びせるようになり、うんざりしたディランはライブ活動をやめ、静かなウッドストックに引きこもったことで、死への疾走にブレーキがかかったということもありえます。

ちなみにウッドストックは、ニューヨーク州の山岳地帯にある古い別荘地で、ディランはここに自宅とプライベート・スタジオを構えています。

1969年に三日三晩行われた伝説の野外音楽フェスティバルも「ウッドストック」と銘打たれていましたが、このイベントが行われた場所は地理的に言うと、ニューヨーク州サリバン郡べセルで、ウッドストックのあるアルスター郡の隣の郡にある牧場だったようです。

ウッドストックの名前を使ったのはこちらの方が有名で、成功したアーティストたちが別荘や家を持っているので、キャッチーだったからかもしれません。


優しさが人を殺す


改めて考えてみると、ディランが生き残ったという成り行きは、単なる偶然ではないような気がします。

ファンのブーイングを引き起こしたのは、彼自身のあまりにも急激な変化です。ということはつまり、彼がうんざりして引きこもることで実現した生き残り、救済は、自分自身が起点になって起きているわけです。

『ノー・ディレクション・ホーム』の中で、2000年代の彼は、「ブーイングは悪いもんじゃない。優しさがかえって人を殺すこともある」と語っています。

たとえば、ジミ・ヘンドリクスやジャニス・ジョプリン、ジム・モリソンは、時代の反抗的なムードを牽引しながら突き進んでいきました。

表現上の挫折とか、バンドの解散とか離脱とか、いろんな問題はありましたが、自分を危険に晒しながら反抗していくというスタイルをどんどんエスカレートさせていくという点では、そんなに変化はなかったと言えます。

ファンも彼らの疾走に喝采を送り続けました。

ファンは表現者ではありませんから、アーティストがどれだけ自分を危険に晒し、自分を痛めつけているかを理解しません。ファンの好意的な評価はエスカレーションを加速するだけです。その先に死が待っていることなど彼らは理解しません。

好意的な評価がアーティストを死に追いやることもあるのです。

ディランが「優しさが人を殺す」と言ったのは、別にジミ・ヘンドリクスやジャニス・ジョプリンのことを言っているわけではないかもしれませんが、彼らに起きたのはまさにそういうことでした。


自己変革と前進


ディランは『ノー・ディレクション・ホーム』の中で、『ライク・ア・ローリングストーン』という曲を大きな転換点だったと評価しています。

音楽的には、マイク・ブルームフィールドのギターや、アル・クーパーのオルガンが入った、後の言葉で言えばロック・バラードみたいな感じの曲ですが、歌詞は売れて金持ちになった自分が、やがて世間から忘れられて落ちぶれてしまうという物語です。

これも彼が自己否定で自分を変え、創造的に前進しようともがいた末に生まれた作品のひとつと言えます。『追憶のハイウエイ61』というタイトルのアルバムに収録されていますが、『追憶のハイウエイ61』が神に息子殺しを命じられるアブラハムから始まる物語を、前衛的なコミック調で歌っているのに対して、『ライク・ア・ローリングストーン』は、これでもかこれでもかと自分を追い詰めていきます。

最初は小説・物語として構想され、歌にしたときでも最初の歌詞は50番まであったといいますから、ニューヨークに出てきて成功して、落ちぶれていく自分を描いた私小説のような内容だったのかもしれません。

こういう自己否定を作品にできる創造性こそが、ディランを生き延びさせたアーティストの生命力だったとも言えます。

ジミ・ヘンドリクスも作詞・作曲を手がけるアーティストでしたが、彼の詞はディランやビートルズの歌詞のような詩ではありませんでした。彼の曲はライブで演奏されることによってその都度命を吹き込まれるタイプの作品でした。

彼は詩によって自己変革し、生きながらえて次へ進むことができず、自己破壊的な演奏によって自分を追い詰めていくしかなかったのかもしれません。


元気なリベラル派


もちろん60年代を生き延びたのはディランだけではありません。彼を理解できなかったリベラルな社会派フォークシンガーのジョーン・バエズも、ピーター・ポール&マリーのピーター・ヤーロウも、2000年代まで生き延びて元気に当時のことを語っています。

彼らは相変わらず社会派でリベラル派です。60年代の反体制運動は60年代でしぼみましたが、彼らは「自分たちは正しい」と相変わらず考えています。その意味で、自己否定・自己破壊による再生を繰り返すディランとは正反対なわけですが、彼らは変わる必要はないと考えているようです。

自分たちは正しいとずっと信じているから、彼らは元気なのでしょう。そこには健全さがありますが、その健全さは保守的な健全さです。自分を変えようとせず、現実世界や人間の変化を見ようとしないことで、自分を危険に晒すこともない。それが彼らを元気で長生きさせるのでしょう。

どの時代にも、どこの国や地域にもいる左翼やリベラル派は、いつもどこでも体制や秩序を批判し、自分たちの権利を主張しますが、自分たちの中からは何も生み出さないのです。

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