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倭・ヤマト・日本22 倭国内百済系勢力の氏族主義と国家主義


百済の影響から読み解く飛鳥時代


僕がせっかく天武・持統時代の改革まで辿り着いたのに、もう一度推古・聖徳太子の時代までさかのぼって、倭国の改革とナショナリズム、国家としてのアイデンティティーについて考え直しているのは、天武の改革、それを可能にした壬申の乱が、百済の支配・影響力からの脱却を抜きにしては考えられないからであり、その百済による支配・影響は推古・聖徳太子の改革からすでに倭国を縛っていたと考えることができるからです。

僕が百済の異常な影響力を意識するようになったのは、中大兄が滅亡した百済を再興しようと軍を半島に送って唐の大軍と戦って敗れ、百済の再興もできないまま、唐が倭国に侵攻してくるかもしれないという危機を招いてしまった、いわゆる白村江紛争の不自然さに疑問を抱いたからです。


中大兄の百済・倭一体思想


中大兄は倭国と百済を一体化した運命共同体のようなものと考えていたのではないかという仮説がそこから生まれました。

その仮説は、中大兄がそもそも百済系勢力であり、乙巳の変で蘇我氏を打倒することで倭国の権力を掌握したことで、倭国・百済の一体化体制が確立されたのではないかという仮説へとつながるのですが、この考え方にも疑問がありました。

それはなぜこのクーデターが倭国で成立してしまったのかという疑問です。

中大兄一派だけが百済系で、倭国の王権を構成していた他の勢力が、倭の五王時代からの勢力、古墳時代前期に半島や大陸各地から渡ってきて生まれた倭人だったとしたら、それは百済による倭国の侵略であり、倭国全体を敵に回しますから、宮廷内での暗殺やその周辺での戦闘で事は済まなかったでしょう。

百済系勢力が倭国内、特に政権内にかなりいて、倭国王権を構成していたから、中大兄はクーデターで権力を掌握することができたのではないでしょうか。

つまり、乙巳の変は、百済系によって運営されていた倭国王権の宮廷内クーデターであり、百済系勢力が中大兄の時代ではなく、もっと前から倭国に広がり、王権を支配していたということを意味しています。


蘇我氏=百済勢力説


百済系勢力はいつから倭国王権内に入り込み、広がったのでしょうか?

ひとつ考えられるのは、蘇我氏が百済の仏教文化・技術を武器に、倭国で勢力を拡大し、王族に娘を嫁がせて影響力を拡大したということです。

推古は蘇我馬子の姪にあたるとされていますし、聖徳太子は推古の甥にあたり、彼の妻は馬子の娘と言われていますから、推古・聖徳太子による仏教推進・国家改革プロジェクトが6世紀末からスタートしたとき、大王家の外戚として影響力を確立していた蘇我馬子はこの改革の黒幕だった可能性があります。

この改革の前に、蘇我馬子は反仏教勢力である物部氏を武力で滅ぼしていますし、推古の即位は蘇我氏に敵対的だった大王・崇峻を、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)という人物に暗殺させています。

そこから蘇我馬子は当時の倭国王権で圧倒的な武力と、国のトップである大王を殺しても咎められない政治的な力を持っていたことがわかります。

この説からすると、蘇我氏が百済系で、用明・推古系の王族は元々倭国にいた倭人であり、推古や聖徳太子は蘇我氏との血縁よる倭人と百済人のハイブリッドということになります。

そこから、彼らは蘇我氏の血と、武力・政治力によって、百済系勢力の影響下にあり、百済に依存した仏教・中国文化導入改革をスタートしたと見ることできます。


倭国独立派と親百済派の対立?


このスタートが推古即位、聖徳太子摂政就任の593年だったとすると、隋の中国統一の4〜5年後で、高句麗・百済・新羅は隋に使節を送って冊封を受けているかその活動の最中だったでしょう。

ここからしばらく倭国は百済依存の中国化を進めていきます。

しかし推古・聖徳太子は、600年から隋と独自に国交を樹立する努力を始め、607年の遣隋使で、冊封を受けることに成功します。

前回見たように、倭国という国家のために、改革プロジェクトを進めていくうちに、彼らは百済系の影響が、倭国の改革推進にプラスになると同時に、国家としての倭国を束縛する点ではマイナスになるという矛盾を意識するようになり、百済の影響からの脱却、国家としての独立を目指したのかもしれません。

これは百済にとって面白くない行動でした。蘇我氏が百済系で、百済の影響力を背景に、倭国で影響力を拡大・維持していたとしたら、彼らにとっても脅威だったでしょう。


古い氏族至上主義の限界


しかし、蘇我馬子は崇峻を暗殺したときのようなアクションを起こさず、倭国の対隋外交を容認したようです。それはなぜでしょう?

推古・聖徳太子のように自分の血が入っている王・王族を殺すのはためらわれたからでしょうか?

だとすると、彼は古いタイプの氏族至上主義に囚われていたということになるかもしれません。

当時の先進的な政策である倭国への仏教導入を進めた点では、新しいビジョンの持ち主だったはずですが、それも倭国における氏族の影響力・権力を最大化するのが目的であり、その意味では古いタイプの古代政治家だったということでしょうか。

推古・聖徳太子が氏族の血といったプライベートな価値観を超えて、国家としての倭国というオフィシャルな大義の下で、対随外交を推進するのを、馬子は苦々しく思いながら手出しできなかったということになります。

僕が学生だった1970年代に、梅原猛という哲学者が『隠された十字架 法隆寺論』という本で、法隆寺に残る儀式や遺物、慣習から聖徳太子は暗殺されたという説を提唱し、ベストセラーになりましたが、日本史の門外漢による読み物的な本だったので、国史学界からは無視されました。

彼が暗殺されたとしたら、蘇我馬子とその勢力によるものだった可能性がありますが、ここでは暗殺説はとらないでおきます。

馬子が聖徳太子を暗殺したくてもできなかったと考えた方が、古代的氏族至上主義という古い価値観の限界と、推古・聖徳太子の新しい国家主義の可能性の対立が、より鮮明に見えてくると思えるからです。


百済勢力の巻き返し


聖徳太子は622年、蘇我馬子は626年、推古は628年に相次いで死去し、倭国の改革は未完のまま次の世代に引き継がれましたが、新しい世代に優れた人材がいなかったせいか、隋の滅亡や百済など半島諸国の混乱のせいか、改革はあまり進展しなかったように見えます。

聖徳太子の一族は、蘇我氏の次世代親子である蝦夷・入鹿に攻め滅ぼされてしまい、蘇我氏が王朝の実権を掌握したようですが、彼らは中大兄と中臣鎌足による乙巳の変で殺され、蘇我氏は滅亡してしまいます。

蘇我蝦夷・入鹿が聖徳太子一族を攻め滅ぼして権力を握ったのは、馬子の古代的氏族主義による行動と見ることができます。つまり百済系氏族による推古・聖徳太子系倭国国家主義への逆襲です。

蘇我蝦夷・入鹿は『日本書紀』では、王朝を侮り、権力を私物化した悪者として、に成敗されたことになっています。それが事実だとしたら、彼らを滅ぼした中大兄は王朝の正統派で、倭国という国家を救ったことになります。一般に流布しているイメージもそんな感じです。


百済系氏族主義者を打倒した国家主義者


しかし、倭国の王権を支配していた百済系氏族の蘇我氏を打倒したなら、中大兄は反百済系の政権を樹立したのかというと、そうではありませんでした。

その後の唐との対立や滅亡した百済再興のための半島派兵、白村江の戦いなどの展開を見ると、彼は倭国の国家主義者ではなく、極端な百済寄りの国家主義者です。

当時彼は20歳という若さで、大王に即位しないまま権力を握りました。

最初のうちは仏教導入支持者で、唐との独自外交を試みる孝徳を大王に立てますが、じわじわと反唐路線、百済・倭国一体化路線を鮮明にしていきます。

そして、彼の政策は孝徳よりも支持されたようです。

武田幸男の『朝鮮史』は、この7世紀前半に半島の百済・高句麗・新羅で、氏族連合体制から、王による中央集権化、独裁化が進められたとし、倭国の乙巳の変もその流れで起きたと述べています。

つまり、半島でも倭国でも、古代的な氏族連合体制治から、王による国家主義体制への転換が起きたわけです。

滅ぼされた蘇我氏は古い古代型氏族主義者で、滅ぼした中大兄は新しい政治の流れから生まれた国家主義者だったと見ることができます。


倭国国家主義と百済国家主義


中大兄が新しい国家主義者だったとしたら、倭国の国家主義体制は百済からの自立を志向しそうですが、そうならずに百済寄りになったのはなぜでしょう?

それは彼が百済系だったからではないでしょうか?

蘇我氏だけが百済系で、王族に外戚として食い込んだのではなく、王権を構成する王族が百済系で、それを支える氏族の中にも百済系勢力がいたということです。

遣隋使を送った推古・聖徳太子は百済系ではないから百済から自立し、倭国として隋と外交関係を樹立しようとしたのではなく、百済系だったからこそ長く百済に依存し、その結果百済による束縛・支配を許してしまった。それが彼らの統治する倭国の発展をかえって阻害することに気づいたから、百済からの独立を模索しだしたと考えることができます。

つまり倭という百済の植民地に、母国である百済から自立して、自分たちの新しい国を建国しようとする百済勢力と、母国に対する忠誠心が強い百済勢力がいたということであり、中大兄は倭国の国家主義者ではなく、百済系国家主義者だったわけです。

そう考えると、なぜ権力を握った彼が百済寄りになり、唐と対立して、半島で百済再興のために唐と戦ったのかなど、色々なことが腑に落ちます。


倭国の自立路線と百済の危機


倭国で推古・聖徳太子による百済経由の仏教・中国文化導入改革が推進された6世紀末から7世紀前半は、百済が半島で窮地に陥り、国家的な改革が行われた時期でもあります。

6世紀半ばに百済は新羅との中間地帯にある伽耶諸国の領有を巡る戦いで敗れ、聖王が戦死しています。伽耶諸国は新羅の領土になり、躍進する新羅に対して百済は不利な立場に追い込まれました。倭国も伽耶に官僚を派遣して、百済と共にこの地域への影響力維持に努めていましたから、百済の敗北は痛手でした。

6世紀末には隋が中国統一を果たし、半島の高句麗・百済・新羅は相次いで朝貢しましたが、隋の文帝は国境を接する高句麗を危険視し、大軍を送って征服しようとします。こうなると、小国の百済と新羅はどうやって独立を維持するか、隋と高句麗のどちらと組むかといった選択・決断を迫られるようになります。

7世紀に入ると、600年に即位した百済の文王は、王都の整備や大寺院を完成させるなど、大規模事業を行い、国力の回復を進めました。

これがちょうど推古・聖徳太子の遣隋使、中国との独自外交への挑戦の時期に当たっています。

百済としては6世紀に失った国力や、6世紀末に始まった隋の高句麗侵攻を受けて、危機感を高めていたときですから、倭国の自立路線への転換は脅威と感じられたでしょう。


唐の建国と半島危機のエスカレート


隋は高句麗との戦いで国力を消耗させて618年に滅びますが、それに代わってすぐさま唐が建国されました。621年には新羅・高句麗・百済が朝貢し、いったん平和が訪れますが、630年代に入ると、周辺国を次々征服していく唐と高句麗の間に緊張が高まり、高句麗では淵蓋蘇文が王や官僚を皆殺しにするクーデターで実権を握ります。

百済でも641年に即位した義慈王が翌年武力で新羅領に侵攻して、旧伽耶諸国を占領し、国内では官僚たちを追放して独裁体制を築きました。倭国で645年に起きた中大兄による乙巳の変は、この百済の中央集権化を受けたものと見ることができます。

つまり乙巳の変は倭国の百済系国家主義者による、百済・倭国一体化戦略の一環として実行されたわけです。

半島では百済に侵攻されて窮地に陥った新羅が高句麗に助けを求めて拒否され、逆に高句麗が百済と組んで新羅に敵対する姿勢を見せたので、新羅はやむを得ず唐に助けを求めます。唐はこれに応えて645年に太宗自ら大軍を率いて高句麗に侵攻します。

ここから唐・新羅連合による高句麗・百済連合の戦いが始まり、660年の百済滅亡へと続いていきます。


白村江の敗戦と百済系国家主義の敗北


百済系国家主義者・中大兄の独裁体制は、百済の危機が高まるにつれてエスカレートし、百済が滅亡した時点では、百済・倭の運命共同体を維持するために、662・663年の半島出兵、白村江の戦いは避けられない状態になっていたのでしょう。

この時期に起きた半島の攻防や唐・新羅同盟による百済・高句麗滅亡については、すでに紹介しましたが、中大兄が百済系の国家主義者だったことを踏まえて見ると、なぜ白村江の戦いが起きたのか、もう一段深く理解できる気がします。

そして、失敗に終わった百済・倭の運命共同体ビジョンを引きずる体制が、中大兄/天智の死後、壬申の乱によって解体されなければならなかった理由もわかるような気がします。

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