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勉強の時間  自分を知る試み8

國分功一郎『中動態の世界』3


原始の意識世界


人類は先輩の動物や類人猿たちより、組織的に知識や情報を共有し、組織的に行動することで動物のヒエラルキーの頂点に立ち、自然を支配することで地球の隅々まで広がったわけですが、そもそも自然や他の生物を支配するといったことは、動物として異常なことです。

動物の中にも強い者が弱い者を補食するといった力関係はありますが、百獣の王ライオンは別にエサになる草食動物を支配しているわけではないし、何かを奪って富として蓄積するわけでもありません。

動物はただ生きるために食べ、子孫を残していくだけです。

我々今の人類の先輩にあたる原人たちも、生きるために動植物を食べ、子孫を残すだけでした。ホモ・サピエンスも最初のうちはそうだったでしょう。

ユヴァル・ノア・ハラリによれば、6〜7万年前あたりで認知革命が起き、知恵を蓄えながら組織を発展させていくようになったことで、人類は世界中へ居留地の拡大を始めています。

人類の組織的な活動は、先輩の動物や原人たちに比べて圧倒的に生産的で、自然環境の変化にも有効な対応ができたので、他の人類は滅び、ホモ・サピエンスだけが世界中に広がりました。

そこから見えてくるのは、人類の知性のすごさです。

しかし、そのすごさ、レベルの高さは、後から人類学的、歴史学的な考察を通じて見えているもので、原始時代の人類はそういう学術的な観点から自分たちの思考を見ていなかったでしょう。

彼らはどんなふうに考え、行動していたんでしょうか?



近現代の未開人


狩猟採集時代でも道具を作っていたし、動物を追い込んで罠にはめて仕留めるとか、色々な工夫をしていたようですから、そういう頭の使い方はしていたでしょうが、彼らを突き動かしていたものは何だったでしょう?

組織的に考え、行動することで、より多くの食料が手に入り、子孫が増えていくとか、人数が増えてその土地で十分な食料が手に入りにくくなったら、新しい土地に仲間を送り出して、生活圏を広げるとか、拡大することへの意欲でしょうか?

近現代の人類学者たちがフィールドワークを通じて、未開人の生活を調査研究したところでは、狩猟採集民も初歩的な農耕民も、それほど食料の増産や生活圏の拡大に意欲があるわけではなく、わりと平穏な暮らしをしているようです。

しかし、それは学者たちの調査がせいぜい十年とか数十年くらいのスパンで行われているだけだからで、何百年とか千年とかもっと長期的には、拡張的な変化がありえたのかもしれません。

ただし、20世紀の未開人は、近現代文明によって地球の大部分が開発されてしまっていて、もう生活圏の拡張は望めないでしょうし、近現代人と接することで、子供や孫の世代は近代文明に呑み込まれていくかもしれませんが。

それでも、1万数千年前の氷河期末期に人類がアジアからベーリング海峡をわたってアメリカ大陸に進出してから、移住と部分的な残留を続けながら人類が南米の南端に達するまで、千年くらいしかかかっていないといいますから、少なくともアメリカ大陸にわたった人類は、けっこうな速度で居住エリアを拡大・延伸していったと言えます。

氷河期末期という厳しい気象条件が、1カ所に定住できるだけの食料確保を難しくしたからなのかもしれません。



原始人の興味・想像力・意欲


原始の人々が何を考えていたかを推察する手がかりとしては、世界各地の洞窟に描かれた動物の絵や、手形、生殖器をかたどった石などがあります。

それは食料への関心や、生殖によって子孫を残すことへの関心を表しているようです。

山とか岩とか木といった自然のものに精霊とか神々みたいなものが宿っていて、それらに祈ったり交信したりといったことも行われていたでしょう。日本の古い神社には、背後の山やそこにある巨石をご神体としているところがあります。

今に伝わる日本の伝統文化では、祭で担がれたり引かれたりする神輿や山車が、神々の乗り物とされています。祭は神々を招き、人と神が触れ合う儀式ですが、神々が下りてきて乗る神輿や山車を担いだり引いたりすることで、人と神は一対になるわけです。

今伝わっている神輿は屋根があったり、精巧な装飾で飾られていたりしますが、日本で最も古い祭のかたちを残していると言われる長野県諏訪大社の御柱祭という祭では、太い木の柱に神が宿るということになっています。

山から切り出した丸太を急斜面の上から滑り落とす木落しというのが祭のクライマックスで、このとき丸太の上に乗るのが最高にかっこいいこととされています。

たぶん、丸太に乗ることで神様と一体になれるみたいなことなんでしょう。

御輿を担いだり、山車に乗ったりするのも同じようなことなのかもしれません。



神々と融合する方法の変化


農耕が始まって、都市国家やもっと大きな国が形成されるようになると、神々を祀ったり、神々と交信したりする宗教儀礼は、王や神官のような権力者層の独占物になっていったようです。

太陽や月や星の運行を把握して、季節の移り変わりによる気象や川の水位の変化などを把握し、いつ作物の種をまいて、田畑に水を引くかといった農業のスケジュールは、天の神々との交信と結びついていて、そういう知識やノウハウを独占的に持っていることが、権力者層にとって一番大切なことだったといいます。

メソポタミアで農業が始まったのは1万年とか1万2000年くらい前とされていますが、紀元前5000年くらいになると、この地域の都市国家では巨大な宗教建築が建てられています。

たぶんそれだけ農業生産が増えて、都市が栄えたからそういうことが可能になったんでしょう。

しかし、最近ではメソポタミアを流れるユーフラテス川の上流、今のトルコ領に1万数千年前の神殿遺跡が発見されて、農業の始まりはもっと前だったとする見方や、そもそも農業が栄えたから宗教が発達して神殿が建設されたのではなく、農業と宗教・神殿は最初から一緒に発展したのだという考え方が出てきているようです。

もともと原始の人々が精霊や神々と交信することで、自然を手なづけながら、狩猟採集から農耕牧畜へと食料獲得の様式を発展させてきたとしたら、人類の意識は最初から宗教的だったわけで、宗教的だったからこそ集団としての思考や行動が可能だったんでしょう。

誰がどういう意志と責任をもって相手にこういうことをするという、能動態/受動態の動詞が太古の言葉になかったのも、人類が個人として考えたり、行動したり、国家や社会を意識したりするようになったのが、古代のギリシャ・ローマ時代のあたりからで、それ以前は精霊や神々と共に集団的にものを把握し、考え、行動していたからなんでしょう。

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