倭・ヤマト・日本28 和を尊ぶ日本的システム
神武東征の激しさ
『日本書紀』の神武東征物語によると、神武天皇に率いられた勢力が大和に攻め込み、先住民の王権を打倒した征服戦争はけっこう激しかったようです。
神武の軍勢は今の大阪平野から奈良盆地に攻め込もうとして、先住民側に撃退され、和歌山の熊野へ南下して川沿いに北上し、激しい戦闘の末に大和を征服しています。
これも前に書きましたが、『日本書紀』は勝者側の神話・歴史書で、何でも書き放題ですから、天孫系の神の子である神武が直接天から大和に降り立って、神の力で平和的に旧勢力を征服した、あるいは旧勢力が神の威光に圧倒されて、自ら幸福し、国を差し出したことにすればよかったはずです。
しかし、それをわざわざ天孫の神が九州に降臨して、そこで勢力を蓄え、東へ攻め込んで激戦の末に征服したと書かなければならなかったのは、これが当時誰でも知っている「事実」で、これをねじ曲げると、いくら勝者の政権といえども、政権を構成する氏族勢力や敗者側の支持が得られなかったのかもしれません。
優しいアフターケア
征服には勝者側が敗者の男たちを皆殺しにして、女子供を奴隷にしてしまうようなものから、敗者側を国の民として受け入れるタイプのものまで色々あります。
『日本書紀』などから推測すると、神武による征服も戦いは激しかったものの、敗者側を受け入れるタイプの征服だったようです。敗者も含めて新しい倭国を運営していくには、それなりの配慮が必要だったのかもしれません。
この神武による大和の武力制圧は、一見国譲り神話の平和的政権移譲と矛盾するように思えます。
しかし、実際に行われた征服戦争が激しかったからこそ、平定後の敗者側に対するケアは優しいものになったと考えれば、納得できる気がします。
ゆるい全国統一
大和地方の旧王権を打倒した後も、神武系・天孫系の新しい王権は、各地の勢力と戦い、平定していったようです。『日本書紀』に書かれている平定戦役も、激しい戦闘があったことをうかがわせます。
それでもそこから誕生した倭・ヤマト王権は、地方の王たちや、近畿地方の有力氏族によって認められ、支持された大王が運営する古代型の部族連合国家でした。中国型の中央集権国家に比べると未完成なゆるい国家だったと言ってもいいでしょう。
全国各地に宇佐八幡宮や稲荷大社、大三島大社、諏訪大社、鹿島神宮、熱田神宮など、古い大きな神社がたくさんあり、中には弥生時代や石器時代の信仰を起源とするものも少なくないのを見ると、力による征服は信仰・文化的なケアによってはじめて持続的なものになったのでしょう。
過去にさかのぼって融和し補強される日本的力
天皇という権力の装置が、飛鳥時代という改革期に生まれたのは、地方豪族・中央の有力氏族に支えられたゆるい連合国家から、中国型の中央集権国家への進化をめざす過程で、中国型の新しい絶対君主、皇帝的な統治者が必要になったからでした。
しかし、古くから倭人/日本人に蓄積されてきた価値観は、そういう明快な絶対的権力者を誕生させない力として作用したようです。
推古・聖徳太子の時代に大王をアメノタラシヒコ、つまり天から降りてきた神の子と定義せざるを得なかったのも、大王側が自分から倭国・倭人の特殊な風土を認め、妥協した結果だったと見ることもできます。
そして、紆余曲折を経て、武力で絶対的な権力を握ったはずの天武も、中国的な皇帝ではなく、太古からの信仰に支えられた神、天皇になりました。
現実世界の絶対的な権力だけで、倭人・日本人を納得させることは難しいので、古い神話時代にさかのぼって、天皇家の系統を神聖化したわけです。
この過去にさかのぼって自分のアイデンティティーを創作するという行為は、古墳時代に半島や大陸から渡来した様々な勢力がすでにやっていたことですし、そこから全国統一を成し遂げた王権がやったことでもあります。
もっと昔の弥生時代、半島から水田耕作をもたらした農耕民が、縄文人の神話を吸収したときにも、それは行われたのかもしれません。
古代のメンタリティーを保存する特異な国民性
過去にさかのぼって自身を定義し、補強することで誕生した天皇という存在は、古代の日本という国家と日本人の精神構造を確立し、彼らが自分たちのアイデンティティーを保持するために欠かせないシステムになりました。
仏教や儒教など外来の信仰や思想も、日本の社会や国家、文化に浸透し、大きな影響力を持ちましたが、それは当時の日本の進歩的な領域、いわばオモテの世界を運営するための建前のシステムであり、人がそこに生きるための難解な思想でした。
一方、天皇と古代からの神々への信仰は、もっと素朴な部分、精神の最もデリケートな領域をカバーする本音の感情でした。
天皇制が歴史を通じて現代まで維持されてきたのは、日本人がそれ以外のアイデンティティーを持っていないからです。
それ以外はすべて海外からもたらされた新しいもの、建前のシステムですから、どれだけ素晴らしいものでも、それは自分たちから生まれたものではなく、外から受容したものに過ぎません。
もちろん天皇家につながる古墳時代の勢力も、海外からやってきたのですが、その空間的な移動を、天からの移動に置き換える神話によって、天皇家は渡来した過去を消し、太古からすでにあった存在、神の子孫になることができました。
日本人がどれだけ科学や近代的な仕組み、欧米文化を取り入れ、それに馴染んでも、そうした合理的な世界からはみ出してしまう精神的な領域が存在するかぎり、天皇はそうした人たちの支えとして機能するでしょう。
そうしたメンタルな機能を古代から国家として維持してきたところに、日本という国家と日本人の特異性があります。
21世紀が多様性を認める時代、多様な特異性を容認する時代だとしたら、日本・日本人のこの特異性も、存続していくのかもしれません。
和を以て貴しと為す
最後にもうひとつ、倭・ヤマト・日本という国と国民性のポイントだなと今回改めて感じたことに触れます。
それは聖徳太子が考案したとされる憲法十七条の第一「和を以て貴しと為す」です。そこに「上も下も争わず、仲良くにこやかに話し合えば、すべて自然と理にかない、うまくいく」といった説明がつけられています。
改革プロジェクトの核心である「仏教をあつく信仰せよ」でさえ、その次に出てきますから、この「和」がどれだけ重視されていたかわかります。
この「和」を重んじる考え方は、どこから来たのでしょうか?
仏教の核心も、森羅万象に対する慈悲、思いやりですから、和に通じるところがあるようにも思えます。
しかし、飛鳥時代の仏教は多くの人にとって仏像を拝むこと、如来とか菩薩とかを多神教の神々のように崇めることでしたから、聖徳太子としては、仏教の難解な思想とは別に、憲法の最初に「和」について打ち出したかったのかもしれません。
島国に渡来した人々の「和」
憲法の最初に登場する「和」は、仏教に由来するだけでなく、古くから倭国・倭人の中に形成されてきたマインドでもあるというのが、今回この記事を長々と書いてきてわかったことでした。
倭国の征服がトータルで優しく融和的だったこと、特に征服された、あるいは渡来勢力に吸収された先住民の文化が、そのつど神話や信仰に融合され、文化の基底を形成していったことの中に、それが感じられます。
神話も天皇も、政治的な機能としては支配の装置なのかもしれませんが、それを上から与え、強制するのではなく、民・国民の心が同意し、必要とする機能として共有されてきたところに、日本的な融和性、「和」があります。
日本的倫理の原点
「和を以て貴しと為す」の「和」は、仏教の基本理念につながると同時に、中国の思想・システムの根底をなす儒教の考えにも通じるところがあります。
儒教は、秩序維持のために人が守るべきことを規定する窮屈な思想というイメージがありますが、元々は力による闘争で物事を解決していた古代中国に、国や世の中がうまく機能するために人が備えるべき倫理を提案した思想です。
その倫理を孔子のように難しく解かず、極限まで単純化したのが「和を以て貴しと為す」と言えるかもしれません。
仏教も儒教も厳しい修行や思索が求めますが、飛鳥時代の倭人にあまり難しいことを言っても通じないので、聖徳太子はエッセンスだけ盛り込んだのでしょう。
この短いフレーズは、日本人の精神構造の基底をなすようになった理念のひとつとして、注目に値するのではないかと思います。