三千世界への旅/アメリカ7
イメージ通りの南部「ディープサウス」
バージニアの南、今のサウスカロライナのチャールストンに、黒人奴隷をもっと大量に酷使して、広大な農園を経営する勢力が最初にやってきたのは1670年から71年にかけてでした。
彼らは元々イギリスの地主階級出身で、タイドウォーターの人たちと同様、宗教的には英国国教会の信徒でしたが、ほかの地域の入植者がヨーロッパからやってきたのに対し、彼らは西インド諸島のバルバドス島からやってきたというのが大きな違いです。
黒人奴隷の酷使と経済発展
彼らはバルバドスでサトウキビ栽培を営み、黒人奴隷を大量に酷使することで、安く大量の砂糖を製造することに成功していました。サウスカロライナにやってきたのは、この大成功した農業モデルをもっと広大な土地で展開するためでした。
バルバドスのビジネスモデルは大成功し、彼らに巨万の富をもたらしました。広大なプランテーション地帯がサウスカロライナから今のジョージアへ、テキサス東部、アーカンソー、テネシー西部、フロリダ、ノースカロライナ南部へと急速に広がっていきました。
この勢力をウッダードは「ディープサウス」と呼んでいます。南部の奥地に広がった勢力という意味にもとれますが、黒人を残酷に酷使して莫大な富を築き、貴族のように暮らした、いわゆる南部らしさが濃い地域、本格的な南部という意味にもとれます。
農園貴族の出現
ディープサウスの農園でまず栽培されたのはイングランドに輸出するための米や藍などでした。そこから得られる利益は莫大で、独立革命前夜には、チャールストンの農園主の富はニューヨークやフィラデルフィアの六倍に達していたと言います。彼らはこの富を注ぎ込んで豪壮な屋敷を建て、イギリスの貴族も顔負けなほど贅沢で貴族的な暮らしをすることができました。
こういう産業構造ですから、当然人口比率は白人に対して黒人が圧倒的に多く、黒人が全人口の80%だったと言います。そして過酷な労働で黒人奴隷はどんどん死んでいくため、常に大量の奴隷を輸入する必要がありました。
さらに、初めは黒人に比較的寛大だったバージニアでも、17世紀後半になると次第にディープサウス方式に影響されるようになり、奴隷に対する扱いが酷くなっていきました。
一番大きな変化は、タイドウォーターの「使用人」はそれまで、年季が明けたら自由になれていたのに、次第に身分として固定されるようになり、生涯奴隷でいなければならなくなったことでした。
タイドウォーターのタバコ農園が植民地型プランテーションのように発展しなかったのに対し、ディープサウスのプランテーションは綿花の栽培によって19世紀に入るとますます勢いを増していきました。
奴隷解放後も残った差別
よく知られているように、1860年代の南北戦争で商工業中心の北部が、奴隷依存型プランテーションの南部に勝利したことで、奴隷制度は廃止され、ディープサウスの繁栄も終わりを告げるのですが、今でもアフリカ系アメリカ人に対する差別や憎悪はアメリカ社会に根強く残っています。その意味でもタイドウォーターとディープサウスはアメリカという国と国民に大きな影響を与え、今も与え続けていると言えるでしょう。
山岳地帯の無法者「グレーター・アパラチア」
アメリカには北部と南部でカルチャーに大きな違いがあることは、僕も以前からなんとなく理解していましたが、同じ北部でもヤンキーダムとミッドランドにはかなり大きな違いがあることはこの本で初めて知りました。しかし、それはあくまでもアメリカ北東部のプロテスタント勢力の中の違いです。
それとは別に、アメリカ東部を南北に走るアパラチア山脈とその周辺に、清教徒ともクエーカーやユグノーやルター派とも違う独特の勢力が根を張りました。ヤンキーダムやミッドランド、タイドウォーター、ディープサウスの勢力よりもかなり後、1717年から76年の間にスコットランド南部やアイルランド北部から渡ってきた人たちです。
辺境の民
彼らは元々イングランドとスコットランドが別の国だった頃、国境周辺に暮らしていた農民たちで、長年にわたり戦争で土地を荒らされ、満足に農業もできず、悲惨な生活をしていました。国境地帯の住民ということで、彼らはボーダーランダーズ、あるいはボーダラーズと呼ばれていました。
16世紀半ば、イングランドがスコットランドを併合した後も、彼らは自分達の土地も持てず、農園の借地人あるいは使用人として暮らしていました。そして、彼らの一部はイングランド王によってアイルランド北部に移住させられました。
当時イングランドはアイルランドを支配していましたが、アイルランド人がカトリック教会の教えを捨てないため、イングランドから農地を持たない借地人や使用人を移住させて、圧力をかけようとしていたとのことです。
遅れてきた移民
18世紀になると、彼らはスコットランドやアイルランドから、アメリカの開拓プロジェクトの使用人としてニューイングランドに続々と渡ってくるようになりました。
ヤンキーダムやミッドランドの入植者たちが、植民地開発会社の支援を受けて自分たちの土地を開拓したり、商売を始めたりすることで農園やビジネスのオーナーになれたのと違い、ボーダーランダーたちは安い賃金でこき使われる使用人、サーバントでした。
彼らの多くはフィラデルフィアに到着し、ペンシルベニアに散っていきましたが、そこはすでにミッドランドの農園が広がっていて、彼らが開拓して手に入れることができる土地はなかったからです。
長年悲惨な暮らしをしてきたため、彼らはかなり粗野で暴力的だったらしく、いたるところで揉め事を起こしました。法律を守らないことも珍しくなく、寛大なクエーカーたちも彼らを自分たちのコミュニティに迎え入れて、サポートしようとしませんでした。
山の荒くれ者
彼らは土地を追われてアパラチアの山岳地帯へ分け行っていき、土地を転々としながら焼畑農業をやったり、家畜を放牧したりして暮らすようになりました。こうした山間部はまだ開拓されていない地域でしたが、当然先住民たちはいました。ボーダーランダーたちの侵入は先住民との争いを生み、激しい戦いが繰り返されました。
彼らは農作物を育てて売る代わりに、小麦からウイスキーを作って売りました。定住して農園を経営するのではなく、簡易な小屋で暮らしながら移動していく彼らにとって、その方が商品として持ち運びやすかったからです。スコットランドやアイルランドでもそういう生き方をしていたのかもしれません。
彼らは大規模な集団は作らず、家族や親戚を核とする小規模で閉鎖的な集団で暮らし、アパラチア山脈の痩せた土地を移動しながら、現在の州で言うとペンシルベニア西部からメリーランド西部、バージニア、ケンタッキー、テネシー、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージアにあたる地域へ広がっていきました。
彼らが築いたネーションをウッダードはアパラチア山脈にちなんでグレーター・アパラチアと呼んでいます。彼らの土地が、アパラチア山脈周辺からさらに広がり、南部の広大な地域を占めるようになったからでしょうか。
また、彼らの中には無法者化して東海岸の植民地を襲撃する集団も出てきて、白人勢力の間での戦闘が起きるようになりました。
治安維持・独立戦争での活躍
一方、ボーダーランダーの中には、こうした無法者集団を取り締まり、抵抗する連中は荒っぽく処刑してしまう勢力も出てきました。彼らはサウスカロライナの治安を回復してやったことで、自分たちの力をこの地域に認めさせました。
それまでこの地域のボーダーランダーは人口の4分の3を占めていたにもかかわらず、議会における代議員48人のうちわずか2名しか認められていなかったのですが、これ以後人口に比例した代議員を議会に要求するようになりました。こうしてボーダーランダーはならず者と片づけることのできない、政治的・文化的勢力になっていったようです。
グレーター・アパラチアのボーダーランダーたちは、18世紀末の独立戦争や19世紀の西部開拓でも活躍したと言われています。