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倭・ヤマト・日本12 白村江敗戦から壬申の乱へ


唐の侵攻に備える


白村江で敗北した倭国軍は本国へ引き上げ、滅亡が確定した百済の王子・豊璋は高句麗に逃れました。

しかし、戦争はそれで終わりではありません。

唐が侵攻してくる可能性がありますから、中大兄は筑紫(今の九州・福岡)に防衛ラインを建設します。水城(みずき)と呼ばれたとのことなので、水濠を擁する防衛拠点だったようです。

さらに、彼は九州北部から瀬戸内海沿岸の山に山城を建設しています。

僕は2010年にそのうちのひとつである岡山県の通称「鬼ノ城(きのじょう/おにのしろ)」を訪ねたことがありますが、附属の博物館の展示によると、7世紀の半島の築城技術が使われているとのことでした。

百済が滅亡して、倭国には多くの百済人が逃れてきたこともあって、彼らの技術がこれらの山城建設にも生かされたようです。


岡山・鬼ノ城の資料館に展示されている城門の復元模型


九州北部と瀬戸内海沿岸に築かれた山城の分布図


母の斉明が661年に急逝した後、皇太子だった中大兄はなかなか大王に即位しようとせず、667年に都を近江(今の滋賀県)・大津に遷し、翌668年、そこでようやく大王に即位して天智になります。

斉明の崩御から、半島での百済再興の戦い、白村江の敗戦、唐の侵攻に備えた防衛施設の建設など、緊迫した状態が続いてそれどころではなかったのかもしれません。


天智と中臣鎌足の対立


近江への遷都は、唐軍が瀬戸内海から攻めてきた場合に備えて、倭の都があった今の奈良盆地より奥に移動するという意味があった可能性がありますが、この遷都は不評だったようです。建設工事などで民の負担が増えたからでしょうか。

『日本書紀』には「当時、あらゆる百姓は遷都を願わず、これを諷刺するものが多かった。童謡(わらべ歌を装って政治を諷刺する歌)も多く、また連日連夜のように火災がおこった」と書かれています。

唐に対して徹底抗戦の姿勢を崩さず、防衛施設の建設や都の移転などの施策を次々打ち出して、国や民の負担を増やした結果、天智が民衆の支持を失い、次第に孤立していったらしいことがうかがえます。

彼の孤立を象徴する出来事のひとつは、中臣鎌足との対立です。

鎌足が重病に冒され、もう長くないと聞いたとき、天智は自ら鎌足を訪ねて、何か望みはないかと訊くのですが、鎌足は「私のような愚か者に、いまさら何の申し上げることがございましょう。ただひとつ、私の葬儀は簡素にしていただきたい」と答えます。

病気の臣下を大王が直接見舞うというのは破格の待遇ですが、鎌足は乙巳の変以来、共に国を率いてきた盟友ですから、ある意味当然かもしれません。しかし、その盟友の鎌足が死を目前にして、「自分は愚か者だから、何も言うことはない」と天智に向かって言うのは、ただ事ではありません。その裏に重大な意見の対立があったことを窺わせます。

たとえば鎌足が唐に詫びて、恭順の意を示すべきだといった意見を述べたとしたら、天智は彼を「愚か者」と罵ったかもしれません。

あるいは、「自分は愚か者だから、何も言うことはない」という言い方の裏には、「私の意見を聞かないあなたこそ愚か者だ」という批判が込められているようにも受け取れます。

鎌足はその後まもなく669年に死去し、天智は彼に藤原の姓を与えて、公的には労をねぎらいますが、重大な局面で対立したまま盟友を失ったことは、天智にとって大打撃だったでしょう。


唐軍からの使節


鎌足と天智の間に対立が、唐をめぐる問題だったことをうかがわせる出来事が、彼の死の4年くらい前に起きています。

664年、つまり白村江の戦いの翌年の5月に、唐の使節が対馬にやってきたと言う記事が『日本書紀』にあります。

この使節は唐の本国からではなく、旧百済領を統治する唐軍の武将が派遣したもので、使節・郭務悰と30人、ほかに兵100人という規模だったようです。

『日本書紀』には、「百済の鎮将劉仁願は、朝散大夫郭務悰らを遣わして、上表文をおさめた函とささげ物をたてまつった」とあり、10月に「郭務悰らを送り出す勅をお出しになった。同日、中臣内臣(中臣鎌足のこと)は、沙門智祥を遣わして、物を郭務悰に賜った」続いて「郭務悰らに饗宴を賜った」とあります。

唐軍が倭国に手紙とささげ物を持ってきて、中臣鎌足が返礼品を与え、その後倭国側が宴会を開いてもてなしてやったということですが、白村江で負けて逃げた倭国に、勝って旧百済領を統治している軍の方から手紙と捧げ物を差し出すと言うのは奇妙な話です。

おそらく事実は、唐軍が今回の倭国の半島出兵、百済再興のために唐軍と戦ったことに対する釈明を求めてきたのでしょう。

倭国側が敗戦を認め、唐側が納得できるような釈明をして、赦しを乞うなら和睦に応じてもいいが、そうでなければ倭国を攻めることもあり得るといったことを伝えたと推測することもできます。

これに対して『日本書紀』では、負けた倭国側が上から返礼品や宴会を賜ったことになっていますが、これもありえないことです。


対馬で行われた最初の交渉


実際に何があったのか推測できる資料として、『海外国記』という海外との外交を記録した文書があるようです。この文書自体は失われていますが、室町時代に編纂された『善隣国宝記』という本に、この664年の唐からの使節のくだりが引用されています。

それによると、この使節は対馬に到着し、倭国側は大山中・采女通という中堅官僚と僧・智弁が迎えた。使節が持ってきた文書は唐の皇帝からの公式な外交文書ではなく、半島に駐留している軍人からのものだったので上奏しなかった、つまり大王・中央官庁に報告しなかったとのことです。

要するに、白村江の敗戦後、最初の唐と倭の接触は、半島と倭国の中間点である対馬で行われ、唐側は半島の軍司令官が派遣した小規模な非公式の代表団、迎えた倭国側は中堅官僚と僧侶だったということになります。

『日本書紀』には「勅をお出しになった」とありますが、勅を出すのは大王・天皇ですから、この場合は当時大王・天皇が空位で、皇太子である中大兄が出したことになりますが、この使節の来訪自体、中央政府に知らせなかったということなので、この勅うんぬんも事実ではないのでしょう。

この第一回使節団と倭国側の会談の内容はわかりませんが、唐側が倭国に何らかの弁明や意思表示を要求したのに対して、倭国側は公式の意思表示をせず、使節を都にも、九州・筑紫にすら入れず、対馬からお引き取り願ったと言うことなのでしょう。

この『海外国記』の記事の方が、白村江の戦い後の最初の接触としては現実味がありそうです。


天智に内緒で始まった和平交渉?


しかし、ここで僕が注目するのは、『日本書紀』に中臣鎌足の名前が出てくることです。

『海外国記』には出てこないようなので、実際には対馬で行われたこの第一回交渉に鎌足が関与していたという確証はないのですが、『日本書紀』の編纂チームは、何らかの意図をもってこの件に鎌足が関与したと書いたのでしょう。その意図とは、鎌足が密かに唐側と接触し、何らかの秘密交渉をしたと暗示することです。

天智(664年にはまだ中大兄ですが)が唐との徹底抗戦の姿勢を崩さず、交渉すらしようとしないので、おそらく鎌足など、政権の幹部たちはこれではまずいと考え、彼には内緒で交渉の糸口を探ろうとのかもしれません。

このときの唐軍からの使節は5か月くらい滞在していますから、倭国側も対馬と都の間で連絡を繰り返しながら、対応する時間はあったでしょう。

この間、唐軍側も対馬にじっとしていたかどうかはわかりません。半島南部の旧百済領は目と鼻の先ですから、使節を派遣した唐の司令官・劉仁願と連絡をとることができたでしょう。



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