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倭・ヤマト・日本26 日本人の精神構造と天皇


天皇の不思議な生命力


前回、倭・日本の改革が百何十年も続いたのは、海に守られた島国だったからという話をしました。

海外勢力との激しい衝突がなかった分、この改革は国内で色々な勢力の抗争を繰り返しながら、決着は曖昧なまま続いたのですが、その過程で天皇という、国の王・最高権力者であると同時に、天からやってきた神の子孫というイメージが確立されていきました。

こうして生まれた天皇制は、朝廷による統治の時代が終わった後も、鎌倉・室町・江戸という武家政権の時代を生き延び、明治の近代化で再び、国家の最高権力者に返り咲きました。

第二次世界大戦の壊滅的な敗北により、明治に誕生した大日本帝国という国家は滅亡しましたが、天皇は大戦後も日本国の象徴として存続し、今に至っています。

この天皇の不思議な生命力は何なのでしょうか?

そこに日本人の特殊さを考えるカギがあるような気がします。


統治者であり神でもある


天皇は天智や天武のように、最高権力者として直接国家を統治した例もありますが、多くの天皇は有力氏族・貴族・官僚などによる集団統治体制で、政権の権威や統治の正当性を保障する象徴的な存在として機能しました。

武士による統治の時代になっても、天皇は武家政権の権威を保障する存在として存続しました。

明治以降の日本は一応近代国家ですから、法律があり、政治家や官僚などによる政府によって運営されていたわけで、天皇はいわば象徴的存在でした。それは第二次世界大戦後の日本でも基本的に変わりません。

それでも日本人は古代から中世、近代まで天皇という象徴を必要としてきたし、今も必要としているように思えます。

なぜ天皇という象徴がそんなに必要なのでしょう?

それはおそらく、古代に天皇という存在が生成されたとき、政治的なトップ、つまり統治者であると同時に、神でもあったからです。

時代によって天皇と朝廷の権威は変化してきましたが、この統治者であり神でもあるという基本設定は本質的に変わっていません。

神でもあるから、統治者としての実質的な権力を失っても、新しい政権に権威を与える存在として機能するわけですし、その政権が失敗して崩壊したら、失敗の責任をとることもなく、次の政権に権威を与えるわけです。


天皇が必要とされる理由


今回日本の古代史を調べていく中で見えてきたのも、この天皇が統治者であると同時に、神という信仰の対象として生成されたということでした。

しかし、そうした結論そのものにはたいした意味はありません。近代以降の天皇制について考えれば、得られる答えは大体似たようなものだからです。

重要なのは、縄文晩期から弥生時代、そして古墳時代に、半島や大陸から渡ってきた様々な勢力の子孫である日本人の中から、なぜ、どのようにそういう設定の天皇が生まれたのかです。

言い換えると、元々海外から渡ってきた日本人が、どうして自分たちを最初から日本列島にいたと信じ、天から降りてきた神々の子孫を天皇/神の子として崇拝するようになったのかです。


改革期の天皇生成 


これまで飛鳥時代の歴史を見てきて分かったのは、この変革・改革の時代に、統治者であり神でもある天皇が必要とされ、生成されたということです。

外国からの文化・システムを導入して自分たちを変えていかなければならなくなった倭人が、自分たちのアイデンティティー、存在のよりどころとしてそういう存在を必要としたと言ってもいいでしょう。

改革つまり自分たちを変えていく過程で生まれる違和感や苦痛、不安を解消し、生きる活力を与えてくれる存在です。

それが推古・聖徳太子時代に生成されつつあったことが、第一回遣隋使の隋の文帝に対する自己紹介「アメノタラシヒコ」から感じられます。

この天から降りてきた神々の子/アメノタラシヒコが、天皇/スメラミコトとして、国家制度だけでなく、太古からの歴史全体に位置付けられたのは、天武によって編纂がスタートし、奈良時代に完成した『日本書紀』によってでした。

このとき天皇と天皇制は、リアルな国家・政治のトップであると同時に、太古から倭国で信仰されてきた神々の子であるというフィクションによって、日本人の信仰の中枢という位置を獲得しました。

それはただ『日本書紀』にそう書き、国家/朝廷が制度として運営したから、その位置を獲得したのではなく、それが正当であると日本人が認め、その後も受け入れ続けてきたからです。


新しい信仰も古い信仰も両方推進する


それでは、なぜ天皇と天皇制は、日本人に受け入れられたのでしょう?

それは、崇高な存在を信仰しなければ生きていけない古代人の精神構造にうまくフィットしたからですが、それは飛鳥時代の改革の中で、いかにも日本的な独特の手法によって提示され、確立されました。

まず、飛鳥時代の改革では、仏教や中国の文化、政治的システムが導入されましたが、それはおそらく強い反発を生んだでしょう。

仏教をめぐって導入派の蘇我氏と、反対派の物部氏が対立し、激しい戦闘の末に物部氏が滅びたのは有名な話ですが、おそらく物部氏だけでなく、当時の多くの倭人が、異国から来た仏教に対して違和感を持っていたでしょう。

仏教には中国の先進的な技術とかシステムがセットになっていますから、王権が本気でこの進歩主義的な改革を推進したければ、古い信仰や価値観を排除してもよさそうなものですが、実際はそうしませんでした。

推古・聖徳太子の政権は、仏教も古い信仰も両方推進したのです。

それは、仏教や中国の文化・システムを積極的に導入しながら、同時に王権のトップが天から降りてきた神々の子孫であるというフィクションを、自分たちのアイデンティティーとして掲げることでした。

革新的な改革と復古的な信仰を同時に推進するのは、近代的な価値観からすると分裂病的ですが、矛盾したものをあわせて呑み込む曖昧さと包容力こそ、それから千数百年続く、日本的な価値観・手法の出発点と言えるかもしれません。


『旧辞』『帝紀』の編纂と天皇の設定


それではこの天から降りてきた神々の子孫=天皇という設定は、いつどのように生まれたのでしょうか?

『古事記』『日本書紀』には、元になったとされる『旧辞』『帝紀』という王朝の公式文書があったとされていますが、飛鳥時代の騒乱で焼けてしまい、天武の時代には残っていたかったようです。

ただ、『旧辞』『帝紀』の元になった資料が残っていたのと、文字で記録する前に行われていた王権の重要事項を記憶し、口承で伝える専門家が生きていたので、それらを元に『記紀』の編纂が行われたと推測されています。

『旧辞』『帝紀』は『記紀』と同様、文字で記述された文書だったようですから、編纂されたのは天武の時代よりそんなに前ではなかったでしょう。

6世紀に仏教が伝来し、中国文化の受容が進んだことで、文字による記録は可能になったと思われるので、飛鳥時代つまり推古・聖徳太子による改革プロジェクトがスタートした後だったと考えられます。

それは中国との接触や仏教・中国文化の需要による違和感とバランスをとるため、この時期に古来の神話や歴史、大王のアイデンティティーがクローズアップされたという僕の仮説と、タイミング的に一致します。

つまり、『記紀』の土台になった神話や古い歴史、大王/天皇=天孫という基本設定はこの頃すでにあったことになります。


先住民と融合して神話・文化を蓄積する


それではこの『旧辞』『帝紀』の元になった神話や古い歴史は、どのように形成され、伝えられてきたのでしょうか?

その内容は『記紀』から推測するしかないのですが、そこに縄文時代の神話の要素や、弥生時代の農耕民の太陽信仰的な要素が含まれているところを見ると、弥生時代に半島から渡ってきた農耕民だけでなく、古墳時代に半島や大陸の各地から渡ってきた多様な勢力も、先住民の信仰・文化を抹殺したのではなく、ある程度それを受け入れながら、列島の各地に定着したらしいことがわかります。

そこにどれくらい渡来勢力による先住民の征服・支配があったのかはわかりませんし、それがどんなかたちをとったのかは、地域や勢力によっても違うのかもしれませんが、先住民の文化を吸収する融和的な姿勢があったから、日本には無数の神々・神社が存在し、山や岩、樹木などを信仰する、石器時代的な古い信仰から、多神教的な信仰まで、多様な信仰のかたちがあるのではないでしょうか。

仏教や中国文化の導入が進む飛鳥時代の改革期に、天皇=天から降りてきた神々の子孫という古い神話由来のリーダー像が当時の倭人に支持されたのも、革新と同時に復古も推進する、ある種曖昧で、ある種融和的な倭人のマインドにマッチしたからかもしれません。


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