三千世界への旅 魔術/創造/変革36 近代の魔術14 ロシア革命
ロシアの社会主義革命とナショナリズム
一方、ロシアや中国のような資本主義の後進国で社会主義革命が起きたのは、経済が発展して成熟したからではなく、国家が崩壊したからです。
ロシアでは、第一次世界大戦が泥沼化したことが直接の原因でした。ドイツがフランスやイギリス、アメリカなど先進国と消耗戦を繰り広げた西部戦線ほどではなかったにしろ、近代兵器で大量の戦死を出し、食糧の慢性的な不足の中で、いつ終わるかわからない戦争を強いられる前線のロシア軍兵士たちにも、国内で暮らす国民にも、物資の不足による窮乏や飢え、厭戦気分が広がっていました。
ロシア人の多くは皇帝を神のように崇めていたようですが、この惨状は多くの国民に、皇帝や帝政に対する疑問や反感を芽生えさせました。
ロシア革命の最初のきっかけは1917年2月にペテルブルグで女性労働者のグループがデモ、ストライキを行ったことでした。デモは全国に広がり、鎮圧に派遣された軍も、兵士が次々デモに参加し、デモはさらに拡大しました。このストやデモの最初のスローガンは「パンをよこせ」、つまり食糧危機をなんとかしろということでしたが、戦争反対や帝政の打倒が叫ばれるようになっていったといいます。
それまで社会主義組織は帝国の警察によって徹底的に弾圧され、ほぼ壊滅状態にありました。のちに革命の指導者になるレーニンなどの革命家の多くはスイスなど国外に亡命しているか、政治犯として流刑地にいましたが、このデモの拡大を受けてロシア帝国の政府は機能しなくなり、帝政は崩壊します。
これがロシア革命の第一段階となった二月革命です。
革命のチャンス
この二月革命では評議会的な組織を意味するソビエトが各地で設立されました。国家の機能を引き継ぐ暫定的な議会や臨時政府も誕生しましたが、議会には社会主義者から旧政府の政治家までいて、混乱を極めました。
社会主義者たちの考え方も、この時点ではまず資本主義経済を確立してから社会主義に移行すべきという、いわゆる二段階革命論が主流でした。レーニンが指導するロシア社会主義民主労働党の一派、いわゆるボルシェビキも、彼以外の指導者の多くはこの意見でした。
しかし、レーニンはこのチャンスを逃したら、100年前のフランス革命のように資本家・ブルジョワジーが国家の官僚組織と結託して権力を握り、労働者は過酷な支配を受け入れることになることを見抜いていました。
彼は他の穏健な政党はもちろん、自分が所属するボルシェビキですら孤立しますが、しつこく論争を繰り返しながら、仲間を説得していき、1917年10月、武力で議会を制圧して権力を掌握します。これが十月革命です。
そこから反対勢力との内戦が勃発しましたが、ボルシェビキはこれをなんとか勝ち抜き、ロシア共産党が革命を主導する新しい国家を樹立しました。
ボルシェビキの勝利を決定づけたのは、軍で武器を手にしていた多くの農民や労働者が彼らを支持したことでした。第一次世界大戦で民衆が武器を持ち、こう着状態だった戦争で軍の統制が崩壊し、軍の中にもソビエトが生まれていました。
民衆が武器をとって革命を起こすのは、普通なら極めて困難ですが、世界大戦による混乱と国家や軍の崩壊のおかげで、革命側は武器と軍事的な組織をあらかじめ持った状態で武力革命に突入できたわけです。
革命の熱気
ロシア革命について僕が若い頃読んだのは、1917年の二月革命から十月革命にかけての出来事をアメリカ人ジャーナリストが取材してまとめた『世界をゆるがした十日間』とか、ロシアの革命家で、のちにスターリンと対立してロシアを離れ、メキシコで暗殺されたトロツキーの『ロシア革命史』などですが、2人とも社会主義者・共産主義者ですから、内容は革命に肯定的です。
客観的に見てロシア革命がどんなもので、どう進行したのかを公平に語るのは難しいのですが、革命の当初は戦争による混乱や食糧不足をなんとか凌ぎながら反対勢力と戦い、労働者や農民は生産の現場でなんとか世の中に物資や食糧を送り出そうと奮闘したという感じだったようです。
革命の1年後、クレムリンで執務中だったレーニンは突然雪の降る中庭に駆け出して、愉快そうに踊りながら、「革命は1年持ったぞ」みたいなことを叫んだそうです。
ロシア革命の前にも、フランスのパリ・コミューンのように戦争の混乱から生まれた暫定政府みたいなものはありましたが、これは1か月くらいで弾圧されています。ロシアの革命もそうならない保証はなかったわけで、レーニンにしてみれば、1年後にまだ革命が持続していることが奇跡のように思えたのかもしれません。
社会主義者の健闘
ロシアはイギリスやフランス、アメリカのような先進国と比べると、経済成長を
推進する資本主義経済の仕組みも科学技術も大きく遅れていましたが、産業の現場にも政府にも、革命を主導する共産党にも、古い支配体制から解放されて、自分たちが公平・公正な新しい社会を作っていくのだという希望や情熱が溢れていたようです。
彼らのエネルギーは、経済的にも社会主義的なやり方で先進国に負けない豊かさを実現できるという夢の力だったようにも見えます。
新しいロシア、ソビエト社会主義共和国連邦は、先進国から経済や外交、技術などあらゆる分野での交流を封鎖され、見通しは決して明るいものではなかったはずですが、人工衛星やロケット、ミサイル、原爆・水爆などの開発競争では、先進国で社会主義を支持する研究者たちからの情報提供などもあって、なんとかアメリカやイギリス、フランスに負けないレベルで戦うことができました。
芸術でも美術のロシア・アヴァンギャルドのように先進的な運動が生まれましたし、音楽やバレエなど帝政時代の芸術遺産も高いレベルで維持されました。
家電製品や自動車など先進国の経済成長を加速させた大衆消費財の分野は、アメリカほど発展しなかったようですが、先進国による経済封鎖という悪条件を考えると、社会主義者たちはなかなか健闘したと言えるでしょう。
国家と革命
ロシア革命とソビエトで、もうひとつ僕が若い頃から注目してきたのは、社会主義国家という仕組みが誕生したことです。
通称「ソ連」と呼ばれた国は、ソビエト社会主義共和国連邦です。この連邦はロシア、ウクライナなどの社会主義共和国から成り立っていました。それぞれの社会主義共和国にはソビエトという名称もついていますが、要するにソビエトという評議会によって統治される社会主義の共和国です。
ソビエトも社会主義共和国もソ連邦全体も、ロシア共産党が主導していましたから一党独裁です。
ロシア共産党にしてみれば、こんな広大な土地を統治する国で社会主義革命を行うのは歴史上初めてですし、反革命勢力の妨害を乗り越えて革命を実現していくには、革命党の強力なリーダーシップが必要だということで、自分たちを正当化することができました。
多くの国民もそれを認めて、ソビエト、労働組合、社会主義共和国といった仕組みの中で、経済や行政が運営されるのを受け入れたようです。
独裁的支配に対する反発
もちろん、不満や反発も生まれました。
たとえば社会主義の理念に基づいて、農業の公営化、いわゆる集団化を実施しようとしたとき、農民たちはこれによって土地を奪われ、収穫した農産物も奪われてしまうと感じ、代表をレーニンのところに送って抗議しました。
社会主義とはすべての生産手段や資産が共有される仕組みですから、すべてがみんなのものになるということなのですが、この「みんなのもの」というのが曲者です。
現場にいる農民としては、農業の公営化も結局、国が土地や生産体制を支配する仕組みにすぎません。せっかく帝政時代の支配から解放されたのに、社会主義国家という新しい支配の仕組みが生まれて、自分たちから土地も収穫物を奪って支配しようとしている、つまり農民を奴隷のように支配していた帝政時代と変わらないと感じたのです。
彼らの代表はレーニンに向かって「今やお前はおれたちの敵であることがはっきりした」といった意味のことを言い、それを聞いたレーニンは反論できずに震えだしと伝えられています。
社会主義革命の理論からすると、こうした農民の反発は彼らの意識や理解が未熟だということになりますが、だからといって国家の権力で無理矢理農業の公営化を進めれば、ほとんどの農民の反発や怒りを抑え込魔なければなりません。これは民衆の支持によって武力革命を成功させたレーニンと共産党、ソビエト政府が民衆と敵対してしまうことになります。
結局、ソビエト政府は公営化・集団化を撤回して、農民による土地や生産物の私有化を一部認める経済政策を実施しました。
現実主義者だったレーニンは、農民の社会主義に対する理解が未成熟な段階で、強引な社会主義制度を押し付けるのは危険だと判断したのでしょう。革命の当初はソビエト政府もロシア共産党も国民との距離が近く、こうした柔軟な対応も可能だったようです。
ソ連で農業の公営化、いわゆる集団化が実施されたのは、この後紹介するように、レーニンの死後、スターリンが権力を握って、共産党と国家による強権的な独裁体制を確立してからでした。
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