三千世界への旅/アメリカ31 ボブ・ディランと反抗の時代4
ウッディ・ガスリー
『ノー・ディレクション・ホーム』には、ロンドンのコンサートでディランが観客から「ウッディ・ガスリーはどうした?」と野次られて、「これはイギリスの音楽じゃない。アメリカン・ミュージックなんだ」と答える場面が出てきます。
ウッディ・ガスリーは1930年代末から活躍したフォーク・シンガーで、全米各地を転々としながら、反体制活動を続けた左翼活動家でもありました。ディランは彼から大きな影響を受け、それがプロテスト・ソングを歌うフォーク・シンガーという、最初のイメージを決定づけたようです。
1940年代後半から50年代のいわゆる赤狩りの時代を経て、ディランがニューヨークに出てきた60年代には、ガスリーはすっかり世間から忘れられた存在になっていました。
しかし、60年代前半に公民権運動やベトナム戦争反対運動が若者のあいだに広がると、ディランだけでなく、ガスリーも反体制運動の象徴になっていったようです。
社会派のフォーク・シンガー、プロテスト・シンガーとラベリングされることを嫌ったディランでしたが、ガスリーに対する尊敬は変わらず、その作品の紹介に努めたり、死の床にあったガスリーを訪ねたりしています。
キング牧師やガスリーに対する変わらない尊敬は、ディランの音楽の変化と矛盾しているようにも見えますが、ロック調の曲を歌ってブーイングを浴びるようになってからも、彼はアコースティック・ギターで自分の過去の曲を歌い続けていたようですし、自分の過去の作品を否定することもしませんでした。
そもそも誰も、何も否定しないのが、ディランの一貫した姿勢と言えるかもしれません。だからキング牧師やガスリーへの尊敬も変わらなかったんでしょう。
彼が拒否するのは、自分を型にはめて束縛しようとする人たちです。ジョーン・バエズと一時期コンサート活動を共にしたのは、彼女に恋したからのようですが、『ノー・ディレクション・ホーム』でも彼女を非難するようなことは言っていません。束縛を嫌って彼女から離れただけで、彼女自身を批判したり、否定したりする気持ちはなかったのでしょう。
何も否定せず、肯定的なものを作り、提供するのが、詩人・芸術家であり、そこが批評家・ジャーナリストとの違いだと言えるんじゃないかと思います。
アメリカン・ミュージック
ところで、ディランがイギリスの観客に言った「イギリスの音楽じゃないアメリカン・ミュージック」とは一体何だったんでしょうか?
イギリス人の野次に対して腹立ちまぎれに出た言葉で、たいした意味はないのかもしれませんが、言われてみるとイギリスの音楽とアメリカの音楽は似ているようでけっこう違います。
ロックンロールはアメリカで黒人の音楽から生まれ、白人に広がると同時にヨーロッパにも広がりました。ビートルズも最初はロックンロール・バンドでした。
60年代以降の当時「ニューロック」と呼ばれた、いわゆるロック・ミュージックは、アメリカよりもむしろイギリスのアーティストがリードしたと思われるくらい、多くのバンド、アーティストがイギリスから出ています。
それでは、ブリティッシュ・ロックとアメリカのロックの違いは何でしょう?
このふたつは似ているようで違います。
ひとつ僕が感じているのは、カントリー・ミュージック的な要素があるかどうかです。
カントリーというと、カウボーイハットを被った保守的なアメリカの田舎者が聴く音楽というイメージですが、元々のルーツはバックカントリー・ミュージック、アパラチア山脈エリアに入植したスコットランド・アイルランド系のいわゆるボーダーランダーたちの音楽だと言われています。
イギリスの民謡・フォークソングのルーツも、イングランドではなくスコットランド人やアイルランド人、つまりアングロ・サクソンがブリテン島を征服する以前からいた先住民の伝統音楽だと言いますから、アメリカとイギリスの音楽のルーツには共通する部分があるかもしれませんが、それでもアメリカン・ロックとブリティッシュ・ロックはかなり違います。
フォークとカントリー
『ノー・ディレクション・ホーム』には、ジョニー・キャッシュという歌手が出てきます。1950年代にデビューしたカントリーとロックンロールの歌手です。ディランがデビューしたとき、キャッシュはすでに大物歌手でしたが、2000年代のインタビューでディランは「ジョニー・キャッシュは自分にとって神様みたいな存在(religious figure)で、共演したときは感激した」と語っています。
この時代のアメリカ音楽界では、フォークとカントリーの垣根は低かったのかもしれません。
フォーク・フェスティバルでディランは大ブーイングを浴びたわけですから、フォークとロックンロールの垣根は高かったようですが、ジョニー・キャッシュのウィキペディアを読むと、カントリーとロックンロールの垣根は低かったようです。
ジャニス・ジョプリンが歌う曲も、ビッグブラザー&ホールディングカンパニーというバンドで歌っていた初期の頃から、カントリー的な曲調のナンバーがありましたし、最後のアルバムに入っている『Me And Bobby Mcgee』は明らかにカントリー系の曲です。
https://www.youtube.com/watch?v=sfjon-ZTqzU
ディランが60年代にライブ活動を休止して、70年代半ばに再開したとき、たしか彼はカウボーイハットをかぶっていて、曲もカントリー的な要素が入っていると僕は感じました。
その前、1960年代にコンサート活動をやめてまもなく出した『All Along The Watchtower』も、フォーク的なアコースティック・ギターで歌っていますが、どこかフォークとカントリーとロックが混じり合っているような曲です。
ジミ・ヘンドリクスがロック的なアレンジでこの曲をカバーしていますが、そこにもカントリーの雰囲気が感じられます。
荒野の歌
このカントリー的なものが何なのか言い表すのは難しいのですが、簡単に言えば「広大な荒野が見えるかどうか」みたいなことでしょうか。
移民たちによって無の状態から開拓された広大な大陸。それがアメリカです。先住民と戦い、駆逐しながらではあったにせよ、自分たちの手で一から開墾し、農地や牧場や住宅地や工場地帯を広げてきた広大な大地がアメリカ人にとっての国であり、開拓が終わった今でもこの大地と彼らの関係は続いているのかもしれません。
カントリー・ミュージック的なもの、そのルーツとしてのバックカントリー・ミュージック、ブルーグラスといった音楽は、アメリカ人のどこかに必ずあるのでしょう。
映画『イージーライダー』は大型バイクで荒野を旅するアウトロー二人組の映画ですが、アメリカンロックのナンバーがたくさん出てきます。この映画のテーマソング的な曲である、ステッペン・ウルフの『Born to Be Wild』も、こうした広大な荒野にふさわしい曲です。
この映画のもうひとつのテーマ曲『The Weight』は、ボブ・ディランが65年から66年にかけて、ブーイングを浴びながら敢行したコンサートツアーで、バックバンドを務めたザ・バンドの曲です。彼らはロックバンドでしたが、この曲はかなりカントリー色が強めです。
https://www.youtube.com/watch?v=hsFOKNQxIhQ
カントリーと保守
日本人にとってカントリー・ミュージックというと、カントリー&ウエスタンという感じで、アメリカの荒野に生きる人たちの音楽ではあっても、保守的な層の人たちが聴く音楽という印象です。
ジョン・ベルーシとダン・エイクロイド主演の映画『ブルース・ブラザーズ』1980年は、孤児院育ちの白人二人組が孤児院の経営危機を救うため、ブルースバンドを組んで活動するという物語ですが、その中にも保守的で古臭い文化の代表として、西部のカントリー&ウエスタンの音楽フェスが出てきます。
ということは、アメリカでも1980年頃になるとカントリー・ミュージックは、保守的なウエスタン文化の音楽として認識されるようになっていたということでしょうか。
1960年代の映画『イージーライダー』でも、終盤に入ると主人公たちは西部らしい土地に入っていき、たまたま入ったレストランで農業・牧畜で暮らしているらしい人たちと出会います。
このシーンは、実在するレストランで本当にたまたま出会った地元の人たちに協力してもらって撮影したとのこと。
髪を短く刈り込んだ彼らは、長髪の主人公たちを好奇と嫌悪の眼差しで眺めます。地元の少女たちがよそ者の主人公たちに興味を示していることが、余計に違和感と不吉な予感をもたらします。
そして、最後に主人公たちは、すれ違ったトラックから地元の親父にライフルで撃たれ、あっけなく死んでしまいます。
これは、60年代の自由な生き方や価値観が世の中に受け入れられず、一時の流行として消えていくこと、文化運動として敗北したことを象徴していると見ることができます。
分断と対立
しかし、自由の象徴である主人公たちを、素朴なカントリーサイドの大人たちが嫌悪し、殺してしまうという表現は、当時から物議を醸しました。
西部・南部の農業地帯には、ロックやドラッグやヒッピー文化を否定・憎悪する大人たちが多かったかもしれませんが、そういう大人は北部の工業地帯にも、東海岸や西海岸にも少なからずいたでしょう。
それを西部・南部の農業地帯の人々に象徴させて描くのは愚かな単純化であり、そこから変な分断と対立が生まれかねません。僕もそこに強い違和感を覚えました。
『イージーライダー』のテーマ曲は初め、ディランに依頼があったようですが、彼は拒否したといいます。
彼はブルースやロックに楽曲の幅を広げましたが、フォークソングやカントリーなど、アメリカの土地に根ざした音楽は彼の根底にずっとあったでしょう。60年代の若者たちが、そうしたアメリカの大地とそこに生きる人々から自分たちを切り離し、分断・対立するかたちで自滅していくのをディランは苦々しい思いで見ていたのかもしれません。
ディランにとって大切だったもの
『イージーライダー』にはアメリカの大地を感じさせる楽曲がたくさん入っているから、そんなにアメリカ人のルーツと60年代の価値観を分断・対立させようとはしていないんじゃないかという気もします。
しかし、60年代前半から時代の先端を走って誤解され、分断・対立・憎悪のはざまに立たされたディランにしてみると、そのあたりはとても複雑かつデリケートな問題でした。
『イージーライダー』が、音楽的にはアメリカの大地に根差そうとしていながら、物語的に大地に根ざした人々を敵に回す描き方をしているところに、ディランはある種の鈍感さ、勘違いがあると感じたのかもしれません。
ディランにとって、アメリカの大地もそこに生きる人々も、伝統的な音楽も、アメリカ人にとって大切なものであり、何より自分がそこに根ざして生きるしかない現実・事実だったのでしょう。
時代の流れに乗って、60年代の反抗の象徴になってしまったディランでしたが、彼が反抗したのは人間を束縛し、支配しようとする仕組みや構造といった強制力を持った観念であって、実体として存在する土地や、そこで実際に生きる人々のことは、絶対に否定も批判もしませんでした。
そこには実在する人や土地やモノを認め、受け入れるという、当たり前のようでいて、実は難しい生き方・考え方があります。反抗の象徴に祭り上げられたディランは、反抗が安易な概念として流布し、不要な分断や対立や憎悪を生むことを嫌い憎んだ人でした。