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勉強の時間 自分を知る試み16

『なぜ世界は存在しないのか』マルクス・ガブリエル3


三千世界


世界とはいろんな領域、意味の場のことであり、したがっていろんな世界あり、その中にいろんなものが実在する。

そういう新しい実在主義の考え方は、欧米主導の哲学では新しいのかもしれませんが、東洋人にとってはわりと古くから馴染みのある考え方でもあります。

たとえば仏教には三千世界というのがありま

世界は大千世界と中千世界と小千世界からできている。つまり、千の大世界と中世界と小世界があるという考え方です。

僕が理解しているところでは、世界は大中小それぞれ千ずつで、合計三千というのではなく、大世界はひとつずつに千の中世界を含んでいて、中世界もひとつずつに千の小世界を含んでいます。

つまり中世界ひとつに小千世界だから、中千世界ひとつに千かける千で百万の小千世界が入っていて、さらに大世界ひとつに中千世界が含まれるから、百万かける千で、トータルで十億の小千世界があるということになります。

ただ、この千とか十億とかは「たくさんの」という意味で、数そのものにはたいした意味はないんでしょう。

それよりも、ほぼ無数と言ってもいいくらいたくさんのいろんな世界が別の世界の中に包み込まれながら存在しているという考え方、ひとつの世界を絶対視しない考え方、ひとつの全体というものは存在しないという考え方に意味があると思います。

ガブリエル・マルクスはたくさんの対象領域、意味の場が、お互い部分的に重なったり、ひとつが別の領域を含んだりしながら存在していて、しかも人が考えたり認識したりすることで、たえず新しい対象領域や意味の場が生まれていると言います。

仏教の三千世界は彼の考える世界のあり方より幾何学的で構造的に見えますが、たぶんビジョンとしては同じようなことを表しているんじゃないかと思います。


高杉晋作の歌


僕はこの三千世界という世界像が仏教のどの経典に書いてあるのか、仏教の開祖である仏陀がそんなことを言ったのか、それとも後世の仏教徒が後から考えたのか知りません。

三千世界という言葉を僕が知ったのは、若い頃に見たNHKの幕末ものの大河ドラマで、高杉晋作が遊女と酒を飲みながら歌った都々逸(どどいつ/江戸時代に寄席や花柳界のお座敷で歌われた歌)のこんな歌詞でした。

三千世界のカラスを殺し
主と朝寝がしてみたい

ネットに出回っている解釈では、男が遊女と一夜を過ごし、朝が来てカラスが鳴いたら、仕事とか政治のために帰らなければならないが、ほんとはそういうしがらみをぜんぶ捨てて、心置きなくお前と朝寝してゆっくりしたい」という歌だということのようですが、僕にはちょっと違和感があります。

それだと武士であり、勤王の志士である男が遊女に後ろ髪を引かれながら、政治の崇高な使命のために彼女を置いて帰らなければならない自分を、自分でかっこいいと思っている、やぼったい歌になってしまうからです。

つまり、ここで歌っている男は、女遊びをする政治家や実業家といった権力者と変わらないわけです。

しかし、相手を「主(ぬし)」と呼んでいるのを見ると、歌っている主体は遊女の方で、世界のもっともらしいしがらみをぶち壊して、あなたと朝寝するくらい夜通し愛し合いたいと言っているように思えます。

江戸時代の習慣からすると、男が女を「主(ぬし)」と呼ぶのは不自然で、女が男を呼ぶのに使っているととる方が自然だからです。

ドラマでは高杉晋作自身がこのどどいつを歌っていましたから、表面上の歌詞の主体は男なんでしょうが、逆に男の方が女の立場で歌っているからこそ、この歌詞には艶っぽさと、革命思想みたいなものも含めて、世界のしがらみを破壊してしまおうという、価値観の新しさが感じられるような気がします。

同時に、三千世界という概念が、難しい哲学の枠におさまらないで、俗世間に広く知識として広まっていたというところに、日本人あるいは東洋人の面白さがあると、ドラマを見た僕はそのとき思いました。


「絶対的真理」を揺さぶるもの


今、その三千世界を思い出しながら、ガブリエル・マルクスの世界像を考えると、西洋と東洋の世界観の違いを改めて感じます。

彼が言う「世界は存在しない」という言葉は、「何も存在するものはない」ということではなく、「世界は全体がひとつに統合されているわけではない」みたいなことを言おうとしています。

つまり西洋の「世界」という概念には、元々、科学とか一神教の神とか、すべてを超えたところから支配する、絶対的な真理で統括されているひとつの世界があると考えられてきたという前提があり、だから、彼はわざわざそういう「世界」は存在しないんだと言わなければならなかったわけです。

多くの人がそうした前提をなんの疑問もなく、あるいは自分で気づかないうちに信じているけど、そんなものを前提にしているから、人間はせっかく中世のキリスト教の支配から抜け出して、科学的・理性的・合理的な考え方をするようになったのに、今度は科学や理性や合理性を神に置き換えて絶対視してしまい、自分たちの考え方を窮屈に縛ってしまうようになったということなのかもしれません。

その前提、すべてを包括するひとつの世界があるという思い込みがそもそも間違っているとマルクス・ガブリエルは言うわけです。

「わたしたちが生きている世界は、意味の場から意味の場への絶え間ない移行、それもほかに替えのきかない一回的な移行の動き、さまざまな意味の場の融合や入れ子の動きとして理解することができます。全体としての冷たい家郷など問題ではありません。『全体として』というようなものは存在しないからです。」(『なぜ世界は存在しないのか』P.142 清水一浩訳/講談社選書メチエ)


「絶対的真理」を求めるという誤り


この本は一般的な読者向けにわかりやすく書かれた本ですが、われわれが生きているこの世界は何なのか、我々は何者なのかを考える哲学の本ですから、あくまで考え方について考えています。

それに対して、僕は歴史とか哲学、思想について考えながら、いつのまにかそこから逸脱して、人類が陥ってしまっている今の状況がどれほど危険か、そこから脱出するにはどうすべきかみたいな、大きなことを偉そうに語ろうとしています。

そこにひとつ大きな誤りがあるわけです。

科学的・理性的・合理的な考え方が世界を支配していて、それが人類の不幸やいろんな問題の根源だからなんとかしなければいけないと、いくらくり返し言ってもなんにもならないのは、僕のそういう言い方、考え方がそもそも自分の考えを絶対的真実、世界全体を包括するすごい解決策みたいに位置づけようとしているからです。

そういう唯一絶対の神が語るような偉大な論説という位置づけ自体、すでに間違っているわけです。


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