三千世界への旅 魔術/創造/変革62 リスタートとゴール
「多様性」の落とし穴
人類がこれから存続していくとしたら、様々な国や民族、宗教、社会階層、ジェンダーなど、それぞれに理性と非理性の仕組みがあることを理解し、それらを踏まえた上で協力しあっていけるようになる必要があるでしょう。
最近では多様性を認め合うことが、徐々にグローバルなコンセンサスになりつつありますから、これが広がっていけば、いろんな勢力がお互いの違いを認め合う時代がやってくるかもしれないと、期待することもできます。
ただ、今言われている多様性、ダイバーシティには、けっこう致命的な欠陥があると僕は思います。
それはあくまで先進国の科学的・理性的・合理的な考え方を基準にした多様性だからです。そこには近代に生まれた進化という概念や、自由競争で勝った強者が、敗者・弱者の独自性を認めてやるという姿勢が隠れています。
つまり科学的・理性的・合理的な仕組みを活用して、自分たちが獲得した利益を確保した上で、その一部を敗者・弱者に譲ってやるということです。
19世紀までは強者が平気で後進地域を侵略し、植民地化し、組織的な支配や奴隷売買などを行なっていたわけですから、それに比べれば世界はずいぶんよくなったと言えるかもしれません。
しかし、だからと言って今の勝者・強者である先進国や巨大資本が、そうしたかつての野蛮な支配で獲得した利益を全部放棄したり、敗者・弱者に利子をつけて返却したりしたわけではありません。
もう少しスマートな支配が可能になった分、余裕をもって敗者・弱者と向き合えるようになったというだけの話です。
そこに使われる基準は、相変わらず近代西欧発祥の科学的・理性的・合理的な考え方や、欧米の強者が勝つゲームの仕組みです。
主観的な幻影としての非理性
基準が科学的・理性的・合理的なら問題ないと考える人も多いでしょうが、ここまで見てきたように、近代の科学的・理性的・合理的な考え方や仕組みが、どんな弊害や反発を生み出してきたかを考えると、大いに疑問です。
科学的・理性的・合理的な考え方や仕組みに対する、社会主義やナショナリズム、宗教的原理主義などの反発は、科学的・理性的・合理的な考えに立つ勢力からは、非理性的で邪悪な考え方と見なされてきましたし、現実に暴力的で不健全なものもそこから生まれました。
しかし、それらを弾圧した、科学的・理性的・合理的な考え方に立つと自称する先進国の勢力も、よくよく見れば非理性的で不健全な力を行使しながら、勝手な思い込みによって、それを見ないようにしてきたにすぎません。
僕が近代史に作用した魔術を検証して発見したのは、支配者側の勝者・強者も、それに反抗する敗者・弱者も、それぞれが自分たちの考え方を科学的・理性的・合理的と認識していて、そこに働いている魔術・非理性を理解していないことでした。
魔術・非理性とは、科学的・理性的・合理的に検証されたものではなく、ひとつの価値観に縛られている勢力が、自分たちに敵対する勢力に働いている考え方のことを認識するときに意識されるものだということです。
北朝鮮と中国の例
これもたびたび触れてきたことですが、たとえば北朝鮮が国民に餓死者が出るほど困窮しているのにミサイルや核兵器の開発をやめないのは狂気の沙汰だと、欧米諸国やそれに追随する日本など先進国の人たちは考えるでしょう。
しかし朝鮮戦争後の朝鮮半島では、圧倒的な軍事力を誇るアメリカが、韓国や日本に軍事拠点を維持することで、軍事的な威嚇を続けてきました。北朝鮮はいつ抹殺されるかわからないという恐怖に怯えながら、なんとか生き延びようと手を尽くしてきたのです。
それが先進国からは狂気としか思えない、この国の行動として表れてきたし、今もそれが続いているわけです。
中国が軍備を拡大し、太平洋に軍事拠点を展開したり、台湾を武力で制圧する可能性を仄めかしたりしていることも同様です。
中国のこうした行動の背景には、まだこの国が貧しく弱かった革命直後の時期から、アメリカ軍が韓国や日本やグアムなどに軍事拠点を確保し、基地に核兵器を配備する可能性も含めて、中国に脅しをかけ続けてきたことがあります。
こうして見ると、ひとつの勢力の非理性には、敵対する勢力の非理性が作用していることがわかります。
厄介なことに、敵対関係にある勢力は、お互いに相手の非理性だけを見ようとし、自分たちの非理性は見えません。
理性/非理性のリテラシー
科学的・理性的・合理的な考え方や仕組みが、非理性的な欲望や幻想のために手段として活用され、不合理な支配や抗争が生まれてきたのが近代という時代でしたし、その意味での近代はまだ続いていると言えるでしょう。
しかし、科学的・理性的・合理的な考え方や仕組みを活用して、グローバルな支配を維持しようとする先進国の思惑や行動は、すでに見たように、それ以外の地域の国々や勢力によって支持されなくなりつつあります。
旧ソ連時代の領土を武力で回復しようとするロシアの戦略が明らかに非理性的で異常であるにも関わらず、世界の多数を占める後進地域の経済新興国や発展途上国の多くがはっきりロシアを非難しないのは、ロシアや中国への経済的・軍事的依存によるものであるというのが先進国側の見方ですが、それは裏を返せば先進国による統治が機能しなくなっているということです。
グローバル・サウスと呼ばれる新興国や途上国にとって、欧米先進国は取引や援助を行いながら、自分たちを支配しているのであって、それが科学的・理性的・合理的な考え方や仕組みによるものかどうかはどうでもいいのです。問題は自分たちにどんな利益をもたらすかであって、相手がロシアや中国だろうと、欧米や日本だろうとどちらでもいいわけです。
科学的・理性的・合理的な仕組みで利益をあげることができる先進国に、そうした新興国・途上国を非難する権利はないし、非難したところで新興国・途上国にいうことを聞かせることができるわけでもありません。
こうして、欧米先進国による統一的なグローバル経済や国際社会というものが弱体化しつつある今必要なのは、欧米先進国の価値基準にとらわれず、理性と非理性がどんなもので、どのように生まれ、作用するのかを理解するノウハウや能力、理性・非理性のリテラシーと呼べるようなものが広まることかもしれません。
この「魔術・創造・変革」では、歴史上表れた集合的非理性の魔術的な作用について、おおざっぱに検討してきましたが、振り返ってみると、歴史的な出来事に作用した現象を場当たり的にとらえただけで、「魔術とは結局何なのか」「非理性とは何なのか」「非理性と魔術はどういう関係にあるのか」といったことすら曖昧なままです。
本来はここで歴史・思想エッセーとしての「魔術・創造・変革」を終わらせるつもりでいたんですが、このまま終わってしまっては、魔術や非理性が何なのかはっきりしないままになってしまいそうなので、ここからは、魔術・非理性が持っている構造・仕組みや性質などについて考えていこうと思います。
見方・考え方の相対性理論
僕が非理性について考えながら、理性について発見したのは、統一的・絶対的な基準は存在しないということです。「自分を知る試み」でもちょっと触れましたが、統一的・絶対的な「世界」は存在しないわけですから、当然統一的・絶対的な理性の基準も存在しないわけです。
あるのは無数の世界にある無数の価値観です。他の価値観を眺めて判断する自分の基準は、あくまで自分の基準であって、他者の基準と相対的な位置関係にあります。
統一的・絶対的な価値基準が存在すると考え、自分たちの基準ですべての世界の事象を判断しようとするとき、自分たちが「理性」と考えているものは非理性になります。
無数の人や集団がそれぞれの基準から他者や他集団を見て判断しているわけですから、どの基準にも絶対的な正当性はありません。
たとえばABCという3集団があるとき、Aから見えるBと、Cから見えるBは違いますし、Bから見えるAとCから見えるAも違いますし、Aから見えるCとBから見えるCも違います。
必要なのは、ただ3つの価値観があることを認めて、それぞれを尊重することではありません。それだけではそれぞれがタコツボに閉じこもって、お互いに干渉しないというだけのことになってしまいます。
他集団の価値観を理解するだけでも足りません。理解して交渉したり譲歩したりするだけでは、不安から逃れられませんし、譲歩した分損害を被ったと感じてストレスを感じる人たちが出てきたりしますし、この不安やストレスが非理性を生み出します。
必要なのはタコツボから出て、他集団の価値基準から自分の集団の価値基準を見たり体験したりすることです。自分が属している価値観から出て、他者の価値観をいくつも体験し、自分の価値観の特殊性を理解するようになると、不安やストレスから生まれる身勝手で非理性的な思い込みから解放されるかもしれません。
新しい景色
こうして不安やストレスなどのネガティブな非理性から解放されると、新しい景色が見えるようになるんじゃないかと、僕は期待しています。
人間がネガティブな非理性に突き動かされるのは、人類が本来持っている拡張への衝動的な意欲に突き動かされて、科学的・理性的・合理的な仕組みを無理やり考え出しては、自然や他人、他の勢力の世界を侵略しようして、抗争や支配、憎悪を生み出してしまうからです。実際に抗争が起きなくても、起こる可能性があるだけで、人間は不安やストレスを感じます。
拡張への衝動が人類の遺伝子に組み込まれているものなら、拡張への衝動があること自体は仕方ないのかもしれませんが、それが生み出すものの仕組みを理解し、コントロールする技術を獲得し、磨いていけば、こうした煉獄的な状態から抜け出すことができる可能性があります。
もしかしたら、ソクラテスとか釈迦とか孔子、老子・荘子といった歴史上の思想家たちは、こうしたものの見方、考え方を発見して広めようとしたのかもしれません。
釈迦や老子・荘子の考え方には人間だけでなく自然も対象に入っていますから、無数の生物それぞれの世界とその法則も、そこに含まれるでしょうし、山や海、大気とその現象も含まれます。
人類が自然や生物に対して優越的な立場にあるとする考え方は、一方的で身勝手な非理性の産物ですが、自分たちの理性と非理性のあり方を知ることで、人類はそれがもたらす束縛や破壊による弊害から解放されるかもしれません。
凡人の僕にどこまでできるかわかりませんが、せっかく魔術とか非理性という出発点を見つけたので、ここから自分なりに自分の思い込みから自分を解放する試みをスタートさせてみようと思います。
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