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倭・ヤマト・日本19 倭国の改革と価値観の継承


「日が上るところ」という意識


『記紀』が編纂された時代に日本と日本人が創造されたということを書きながら、改めて思ったのは、その創造がいきなり無から有を生み出す創造ではなく、意外と過去からの継承を含んでいることです。

たとえば日本という国名は、日の本(ひのもと)つまり「日が上るところ」という意味で付けられたのでしょう。この日の本という概念は『記紀』によって突然作り出されたのではなく、その前から存在していました。

推古・聖徳太子の時代、第二回遣隋使が隋に差し出した国書(公式の手紙)に、「日出る処の天子」と記されていたというのは有名な話ですが、それが本当だとすると、このとき倭国側は、中国に対して自分たちの国が東、つまり太陽が上るところにあるということを意識してこう名乗ったと考えられます。

それがこの国書が作成されたときに考え出された表現なのか、もっと以前からあったものなのかはわかりませんが、遅くても天武の時代より80年くらい前、『日本書紀』完成から100年以上前に、そういう意識が倭人にあったようです。

ちなみにこの有名な言葉は、『隋書』東夷倭国伝に載っているもので、『日本書紀』には出てきません。ただ小野妹子を隋に派遣したことが簡単に記されているだけです。

第二回遣隋使の国書は、倭国の大王も中国の皇帝も対等の「天子」であるという表現で、皇帝・煬帝を怒らせてしまったので、『日本書紀』ではそのまま事実を書くわけにいかなかったのでしょう。

隋は短命に終わった国ですし、戦乱によって滅亡しているので、後世に編纂された『隋書』に、どれだけ正確な資料が使われたのか疑問もありますが、後付けの創作が多い『日本書紀』ではなく、中国側の歴史書に出てくるということは、「日の本」「日本」に通じる「日出る処」という表現が、推古・聖徳太子時代の倭国にあったことをある程度裏書きするものと考えていいのではないかと思います。


「天が太陽より上」という価値観


ちなみに第一回遣隋使は、隋の高祖・文帝との質疑応答で、倭国を辺境の野蛮で低レベルの国だと思わせてしまったようなので、『日本書紀』では使節を送ったこと自体がカットされています。

『隋書』東夷倭国伝によると、この第一回遣隋使は倭国について文帝から問われ、倭王が天を兄、太陽を弟と考えていて、夜が明ける前にまつりごとを聴き(最高決定権者として政治の報告・相談を受け)、太陽が上ったら政務を弟に任せると答えたのですが、文帝は「それは非常に不合理(はなはだ義理なし)だから改めろと指示したといいます。

ここで興味深いのは、日・太陽と天について当時の倭人・倭国政権がどう考えていたのかが語られていることです。その世界観では、天を兄、日・太陽を弟、つまり日・太陽より天を上に位置づけているわけです。

そして倭王は日が上るまでに政治の報告・相談を受け、日が上ったら弟に任せるというのですが、隋の文帝は何を不合理だと考えたのでしょうか?

最高決定権者である王が、夜明け前しか政務に携わらないことが、国家運営にとって非効率的だということなのかもしれません。

確かに天が太陽より上だから、日が上ると王は政務をやめ、弟に任せて引っ込んでしまうというのは、いかにも太古の宗教に縛られている感じで、弥生時代の卑弥呼のまつりごとを思わせます。


隋・文帝の誤解?


この第一回遣隋使は、倭の五王時代以来約100年ぶりの中国への使節ですから、コミュニケーションに問題があって、倭国は古くて野蛮な国だという印象を文帝に与えてしまったのかもしれません。

飛鳥時代の倭国は第一回遣隋使の600年当時、すでに百済経由で仏教など中国文化の導入を始めていたでしょうから、風習は弥生時代のままみたいなことを本当に使節が言ったのかどうかも疑問です。

少なくとも仏教・中国文化導入プロジェクトのリーダーだった聖徳太子には、もっと進歩的な倭国を見せたいという意識があったでしょう。第二回遣隋使の「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書の冒頭には、そういうプライドみたいなものが感じられます。

ただ、飛鳥時代の変革ビジョンが、推古王朝内で十分理解されていなかった可能性はあります。

『隋書』東夷倭国伝には第一回遣隋使が国書を提出したという話がなく、文帝が使節に質問したことが出てくるだけなので、もしかしたらこのときの倭国側は、国書を持っていくという外交のしきたりすら、知らなかったのかもしれません。

文帝はこの時点ですでに、倭人はものを知らない野蛮な連中だという印象を受けていて、遣隋使の回答にもそのバイアスがかかった可能性もあります。

倭人に関する予備知識が、文帝と隋の外交部門にどれくらいあったのかわかりませんが、もしかしたら大王・推古と摂政・聖徳太子の話を、『魏志倭人伝』に出てくる、女王・卑弥呼と補佐役の弟のイメージにすり替えて受け取ったのかもしれません。


天皇に通じる「天」の認識


それでも、この第一回遣隋使のエピソードは、『日本書紀』の100年以上前から、すでに「天」というものを最上位、超越的なものと考える価値観・世界観が倭国に存在したことをうかがわせます。

太陽崇拝が、農業・稲作が列島に広がった弥生時代の信仰だとすれば、天をその上に位置づける世界観は、農業が普及した列島にその後からやってきた勢力が、農業社会を支配するにあたって、自分たちを超越的な高みに置くために創り出したビジョン・神話です。

それが古墳時代のどの時点からあったのかはわかりませんが、後に『記紀』で日本・大和朝廷の神話として体系づけられる神話の原型が、遅くても推古王朝の時代に存在したことがわかります。

そして、この価値観・世界観が『日本書紀』による天皇の超越性につながったと考えることができます。

天武・持統王朝が壬申の乱後に、国家としての日本を創造したと言っても、そのベースになる価値観・世界観はかなり前からあり、彼らの時代まで継承されてきたものなのでしょう。


『隋書』に出てくる倭王の謎


もうひとつ興味深いのは、『隋書』東夷倭国伝の第一回遣隋使の記事に出てくる倭国王の名前です。

そこには「倭王、姓は阿毎(アメ)、字は多利思北狐(タリシヒコ/タラシヒコ?)、阿輩雞弥(アメキミ)と号し」と倭王の名前が記録されています。

倭国側から提出した書はなく、口頭で使節が伝えた発音に漢字を振ったものなので、正確性はいまいちなのかもしれませんが、王の姓が「アメ」なのは「天」を意味しているのでしょうか。

号も「アメキミ」となっていますが、意味的には「天王」でしょうか。

倭国の王は、諸王の上に立つ王つまり大王ですから、「オオキミ」のはずですが、このへんもコミュニケーションの齟齬によるズレなのかもしれません。

ただ、実際に「アメキミ」と名乗ったのだとすると、「天王」すなわち後の「天皇」に通じる称号が、当時は「すめらみこと」ではなく、「アメキミ」と発音していた可能性もあります。

不思議なのは、この倭王の名前が大王・推古の名前である額田部王(ぬかたべのきみ)と似ても似つかないことですが、大王は公式に名乗る場合、即位前の名前ではなく、「アメノタリシヒコ」とか、天の王を意味する「アメキミ」を名乗ることになっていたのかもしれません。

「アメノタリシヒコ」は意味的には「天から降った男」みたいなことでしょうか。

あるいはこれもコミュニケーションの齟齬で、倭国の大王の家系が天の神々の子孫であることを遣隋使が伝えようとしたのを、隋側が倭王の名前と勘違いしたのかもしれません。


倭国のイメージ戦略と隋の混乱・誤解 


倭国が女王を戴いているとなると、隋に馬鹿にされそうなので、男王だということにして、適当な名前を伝えた可能性もあるでしょうか。

この後、『隋書』東夷倭国伝には、後宮に女が 600〜700人いるとか、中央官僚には12等級あるとか、中国の王朝みたいな情報も出てきますが、倭国側が中国側の価値観に合わせて倭国の様子を伝えようとしたのかもしれません。

他にも衣類や道具類などの風習、裁判や刑罰などの制度も出てきますが、弥生時代の慣習が残っているような印象を与える事柄が多く見られます。

唐の時代に『隋書』を編纂したチームは、資料が戦乱で散逸していたので、卑弥呼時代の『魏志倭人伝』や倭の五王時代の『宋書倭国伝』など、いろんな資料から当時の倭国像を作ってしまい、それが情報の誤り・混乱を拡大しているようにも思えます。

しかしいずれにせよ、倭国王が大王と呼ばれていた時代から、天孫という尊いルーツだということを意識していたことがうかがえます。

この大王=天孫という価値観の元になる天孫神話は、おそらく推古・聖徳太子の時代より前からあったでしょうから、『日本書紀』の時代にオーソライズされた天皇という名称と、その政治的な神格化の基盤は、結構古くからあったと考えていいでしょう。

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