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倭・ヤマト・日本25 表裏一体の改革と古い価値観


改革の時代の女王・女帝


7世紀の倭国と中国に女王・女帝が出現したのは偶然でしょうか?

偶然ではなかったと考えられるひとつの理由は、この時期が東アジアにとって変革と混乱の時代だったことです。

変革と混乱の時代なら、物騒なので男王・男帝が活躍しそうなものですし、事実男王・男帝もたくさん活躍していますが、変革と混乱の時代は、そういう既成概念が通用しない時代でもあります。

唐の武則天は、遊牧民・騎馬民族勢力である隋・唐が、中国を約400年ぶりに統一した時期に登場しています。

中国の歴代帝国は徹底した男性優位主義で運営されてきましたし、唐の有力貴族もそれに倣おうとする傾向があったようですが、太宗・高宗皇帝は新しい風が必要だと感じ、彼女を登用しました。

彼女は有力貴族層の反感や妨害にあいながら、身分の低い階層から人材を登用し、唐の政治の基盤を築いたと言われています。前の皇后を虐殺するなど、残忍な側面も指摘されていますが、反対勢力の中で改革を行なうには、それなりの力による政治が必要だったのかもしれません。


新羅の改革期に登場した女王


7世紀の新羅にも善徳王(在位632〜647年)・真徳王(在位647〜654年)という女王が出ています。彼女たちが王として活動したのも、半島の抗争や隋・唐の攻勢にどう対処するか、決断を迫られた時期でした。

先代の王に男子がおらず、他に父母とも王族の男子がいなかったので、女性の善徳が即位したと言われていますし、実際の改革や外交、戦闘は王族の金春秋(後の武烈王)が担ったようですが、百済に対して劣勢だった当時の新羅が、勢力を盛り返していく時期に、彼女は王としての役割を果たしています。

これも前に紹介しましたが、唐は新羅からの救援要請に応じる条件として、女王を廃位しろと要求しました。これは武則天が皇后として政治を行う前だったからかもしれません。

新羅では善徳女王を廃位させようとする一派の反乱が起き、女王はその最中に崩御しますが、反乱を鎮圧した金春秋は、次の王にもあえて女王の真徳を擁立しています。

これは新羅の改革の時代が、唐や百済、高句麗との緊張が高まった時代であり、国・民族を守る意識が明確化したナショナリズムの時代だったからかもしれません。


突出して長い倭・日本の女王・女帝時代


唐と新羅の女帝・女王が1人、2人なのに対して、倭国には6世紀末から7世紀にかけて推古、7世紀に皇極/斉明(同一人物が重祚つまり2回即位)と持統、奈良時代の8世紀に元明、元正、孝謙/称徳(重祚)と、長期にわたって6人の女王・女帝が出ています。

これには何か意味があるのでしょうか?

ひとつ考えられるのは、改革期との関連です。

推古は593年、仏教・中国文化導入による改革プロジェクトの本格始動と同時に王位に就いています。

その後も中大兄/天智から天武・持統、その系統へと改革の担い手は変わったものの、倭・日本の改革は継続していますから、改革期が女王・女帝を容認する、あるいは必要とするという説が成り立つとしたら、女王・女帝が出る環境があったと考えることもできるでしょう。


改革の反作用としての復古主義


しかし倭・日本の場合、女王・女帝は改革と単純に結びつけることはできないような気がします。

倭・日本の女王・女帝は、日本の主神・太陽神アマテラスや、邪馬台国の卑弥呼につながる存在でもあるからです。つまり日本の女王・女帝は神話や伝説の時代の価値観とも結びついているわけです。

海外の文化・価値観を取り入れる改革が行われるとき、違和感や反発を生み出し、それを表現するために、古い価値観が再生されるという話を前にしましたが、倭・日本の女王・女帝には、この古い価値観を体現する機能があった可能性があるのではないでしょうか。

明治維新で西洋文化を導入して近代化を図ったとき、国家のトップに天皇という古代からの首長を据え、国家神道を国のオフィシャルな宗教として基盤に置いたのと同じ手法です。

外国からもたらされた新しいシステムに無理矢理対応しなければならないとき、国民の中には反近代的・反理性的な感情が生まれます。

中国から新しい文化・システムを導入して、古代国家としての改革を進めた飛鳥時代から奈良時代初頭の倭・日本にも、そういうメカニズムが働いた可能性はあると思います。


日本の改革が長く続いた理由


不思議なのは倭国・日本の仏教や中国文化の導入による改革と、太古の神話・信仰による政権の権威づけが百何十年も続いたことです。女王・女帝の時代が長く続いたのも、この改革・復古両立の時代が長く続いたことと、切り離して考えることはできません。

政治的な改革・変革というのは国の存亡をかけた必要性によって行われるものですから、結果を求められます。結果が出ればその改革は成功、出なければ失敗して決着がつきます。

たとえば7世紀前半に半島の北部では隋・唐と高句麗の戦争が起き、百済と新羅の攻防が激しくなったことから、3カ国それぞれ権力を中央に集中させる改革が行われました。

そして百済と新羅の対立は、新羅・唐連合対百済・高句麗連合の戦争にエスカレートし、660年代に百済と高句麗が滅亡。さらに滅亡した旧百済・高句麗の統治をめぐって、今度は唐と新羅の戦争になり、670年代に新羅が唐軍を撤退させ、統一新羅が新たに誕生しています。

半島の地殻変動が7世紀の数十年で、高句麗・百済が滅亡、新羅が半島を統一するという、劇的なかたちで決着したのに対し、倭国では6世紀末に始まった改革が7世紀でも終わらず、8世紀まで続いています。

これはなぜでしょうか?


島国の孤立性と安全性


ひとつには、倭国・日本が半島・大陸から海を隔てた島国だということが関係しているのかもしれません。

中国と半島3カ国は陸続きだから戦争が起きやすく、国の滅亡・統合といった劇的な決着も生まれやすいのですが、倭国は百済の滅亡に際して半島に一度軍を送って唐軍と戦ったものの、大敗してさっさと逃げ帰り、その後は戦争に巻き込まれることはありませんでした。

唐も半島の3カ国も、その間自分たちの抗争で手一杯で、海を隔てた倭国のことをかまっている余裕がなかったというのも、倭国にとっては幸いしたのでしょう。


曖昧な決着と成果


倭国内では推古朝の前に、仏教導入派の蘇我氏と、反仏教派の物部氏との抗争があり、聖徳太子の死後に起きた蘇我氏による太子一族の滅亡、中大兄による蘇我氏の滅亡、壬申の乱など、対立抗争は色々と起きているのですが、抗争の決着がついても、前の政権の改革がある程度、あるいはほとんど受け継がれていて、改革の決着は曖昧なままです。

推古・聖徳太子の時代から中大兄/天智、天武の時代まで、仏教の推進や、中国の文化・政治システムの導入による改革は続いていていますし、推古・聖徳太子時代から始まった女王・女帝OKの政治的慣例や、第一回遣隋使の隋とのやり取りからうかがえる「大王=天から降りてきた神の子」的な思想など、太古の文化で政権の権威を強化しようとする傾向も、天武・持統を経て奈良時代まで続いています。

そこにはまるで対立などなかったかのような一貫性があるのですが、それらの改革が明確な成果を定義することも評価することもなく続いていくので、なぜそれらが必要だったのか、それらは何を生み出したのかは曖昧なままなのです。

こうした曖昧さが許されるところにも、島国の特殊性があると言えるのかもしれません。

また、この曖昧さこそ、天武以後の天皇を政治的な権力者であると同時に宗教的な神であることを許す仕組み、メカニズムなのかもしれません。

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