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倭・ヤマト・日本13 唐との国交回復と壬申の乱


交渉継続と外交努力


結局664年の対馬での交渉は埒があかなかったのか、唐は翌665年9月に2度目の使節を倭国に送ってきています。

今度は唐からの公式な使節で、代表は劉徳高。前回来ていた郭務悰も含めた254人という、第一回よりかなり大人数の使節団で、対馬経由で筑紫の太宰府に入り、文書を進上したと『日本書紀』は記しています。

太宰府は倭国の九州における最大の拠点ですから、前回よりは国として正式に使節を迎えたことになりますが、倭の都には入っていないので、倭・唐とも相手を警戒していることがうかがえます。

この第二回使節団は12月に唐へ出発し、倭国側も使節を唐へ送るための遣唐使を同行させていますから、交渉がどうなったのか詳しくはわからないものの、一応形式上は国交が回復しているようにも見えます。

次に唐側から使節が来たのは667年ですが、11月9日に665年の遣唐使の副使・堺部連石積らを太宰府に送ってきて、13日には出発していますから、外交交渉を行うための使節ではなかったでしょう。

ちなみにこの667年の3月に、天智は近江へ遷都しています。

それまで外交の窓口だった難波(今の大阪)や、倭国の都(今の奈良)より遠くに移動したわけですから、665年の形式的な国交回復から2年経っても、彼の唐を敵視する姿勢は変わらず、むしろ唐の侵攻への警戒感がより強くなったと見ることもできます。


壬申の乱前夜と唐の使節2000人


近江遷都の翌年、668年に中大兄はようやく即位して天智になります。

その翌年669年に鎌足が死去し、670年に天智は息子の大友皇子を太政大臣に任命します。

671年10月、天智は重病に伏して、弟の大海人を呼んで跡を継いでくれるよう求めますが、大海人はこれを固辞します。

彼は「大皇弟」と呼ばれる特別な存在で、東宮つまり皇太子ですから、天智の跡を継ぐことに何の問題もなかったはずですが、なぜかこれを受けず、天下のことは皇后に、政務は大友王に任せるよう天智に勧め、自分は出家して吉野に逃れます。

そして11月に唐の使節・郭務悰ら2000人、船47隻が対馬に到着したという記事がこれに続きます。

続いて12月に天智が崩御したことを記して、『日本書紀』の天智の巻は終わります。

次の天武の巻は、大海人のプロフィールを簡単に紹介して、天智に呼ばれた大海人が後継を固辞する場面に戻ります。

ここでは大海人がうっかり後継の座を受けたら、陰謀で殺されかねなかったという、天智の巻で触れられていなかったことが暗示されています。


大海人の周到な準備


うがった見方をすれば、この時点までに大海人は中臣鎌足と同様、天智の唐に対する敵対姿勢に反対していて、天智は彼を始末して息子の大友に跡を継がせたかったのではないかという気もします。少なくとも、大友の側近たちはそう考えていたでしょう。

天智が崩御して約半年後、大海人が近江に攻め込んで大友勢を滅ぼす、いわゆる壬申の乱が起きます。

このとき大海人は吉野を脱出して伊勢・美濃へと移動しながら、自分に忠誠を誓う勢力を集めていくのですが、その迅速な行動を見ると、前々から戦いの準備を進めていたことがうかがえます。

陰謀を企んでいたのは天智も大海人もお互い様ということです。

むしろ陰謀をめぐらせたのは彼の方だったので、彼の管理下で編纂された『日本書紀』では、天智側にも陰謀があり、やむをえず反乱を起こしたのだと記すことで、自分を正当化したのかもしれません。



唐使節2000人の不思議な行動


『日本書紀』では、壬申の乱の記事の直前に、対馬から筑紫に入っていた郭務悰ら唐の使節に天智崩御が伝えられ、死を悼む彼らの様子と、倭国側との贈り物の交換が行われたこと、そして彼らが唐に帰っていったことを記しています。

まるで2000人という大人数でやってきたわりに、特に何か用事があったわけでもなく、天智の死を悼んで帰っていったような書き方です。

唐に反抗的だった天智が亡くなったことで、白村江の戦いのわだかまりや国交正常化の障害が解消され、特に交渉をする必要もなくなったので、そのまま帰っていったということでしょうか?

壬申の乱直前というタイミングや2000人という数の多さからすると、別の目的があったのではないかと考えたくなりますが、これについてはまた後から改めて考えます。


短期間で決着した壬申の乱


天智が671年12月(西暦=ユリウス暦では672年1月)に崩御したあと、大海人は6月24日(西暦7月24日)に出家して隠遁していた吉野を出発。伊勢から美濃へ移動しながら、軍勢を集めます。東国や東海から多数の兵が駆けつけたようです。

大海人は畿内と東国を分ける不破関(今の関ヶ原あたり)に拠点を置いて、大友の拠点がある近江の大津と、当時倭京と呼ばれた今の奈良エリアの二カ所に軍送ります。

近江は割とあっさり陥落し、奈良の倭京では激戦があったものの、約1か月後の7月23日(西暦8月21日)には決着がついていますから、壬申の乱はほぼ大海人が予想し、準備していた計画に沿って展開されたと言えるでしょう。

こうして見ると、この乱は畿内の近江と奈良という、都の周辺で行われた小規模な戦闘だったようにも思えます。

しかし、大海人側には畿内だけでなく、東海道・東山道など遠方からも軍勢が駆け付けていますから、都のある近畿地方から東国まで巻き込んだ動乱だったと見ることもできます。


動かなかった西国の勢力


近江の大友側は全国各地に動員をかけるため、使者を派遣したようですが、東国へのルートは不破関を大海人軍が固めていて通れず、西国には使者が贈られたものの、有力豪族から援軍は送られませんでした。

筑紫には外国からの使者を迎えたり、外国の侵攻を防いだりする兵力が駐屯していましたが、その司令官は外国の侵攻に備えるためという理由で、機内への派兵を拒絶しています。

前に紹介した小林恵子の『白村江の戦いと壬申の乱』によると、筑紫の司令官も、吉備の国守も、元々大海人の臣下的な豪族だったようなので、動かなかったのは当然かもしれません。

しかし、そのほかの西国の豪族も動かなかったのはなぜでしょう?

中央政権の内部紛争に巻き込まれたくなかったのかもしれません。東国の勢力が大海人の元に駆けつけたのに対して、大友にはそれだけの人望や信頼がなかったと見ることもできます。

ひとつ思い当たるのは、白村江の敗戦後に中大兄/天智が九州北部から瀬戸内海沿岸に大規模な防衛拠点を建設したことです。

半島への出兵に兵力を供給し、敗戦後の本土防衛施設建設にも人手を提供しなければならなかったとしたら、地方、特に西国の豪族や地域の農民たちには大きな負担だったでしょう。

カリスマ的リーダーだった中大兄/天智に対してすら、西国勢の不満は募っていた可能性があります。そのカリスマが死んだら、何の実績もない息子の派兵要請に応じる言われはないわけです。

近江側が兵力の動員に成功していたら、東西の勢力が畿内で衝突する全国規模の大動乱になっていたかもしれませんが、そういう展開にならなかったことで、壬申の乱は短期間で決着したということでしょうか。


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