12年経ってようやくたどりついた自死遺族としての供養方法
ライオンズゲート期間に体調を崩し、すっかり更新が途絶えてしまいました。
今回は、下書きに保存しておいたままだった自死遺族についての記事をまとめます。
本当はライオンズゲート期間の体調不良について記事を書こうとしていたのですが、
今このタイミングで書きなさいと言われている気がするので、宇宙の導きに従ってみます。
さて、さっそくですが、
12年経ってたどりついた自死遺族としての供養方法とは何かというと、
故人が生ききったことを認めてあげること
です。
ここで注意してほしいのですが、
故人が生ききったことを認めることと、自殺を肯定することはまた別であるということです。
生ききったことを認めてあげること。
精一杯、命を輝かせていたことを認めるということ。
共に生きた時代があり、喜びや悲しみを分かち合った時代があったということ。
それこそが、自死遺族にとって、亡くなっていった者にとって供養となるのではないか。
そもそも、死を選択する動機の根底にあるものは、“生きたい”という願望です。
つまり、自殺者は生きようとした結果、“死”を選んだということ。
自分らしく生きるために選んだ方法が、“死”だったということ。
それを認めてあげることこそが、残された者のみならず、亡くなっていった者にとっても救済となるのではないかと思うのです。
自分らしく生きたかったんだね。
けど、つらくて先が見えなかったんだね。
だから、そんな状況をなんとかしたかったんだね。
それが、結果的に死ぬことだったんだね。
誰もがみんな、死のうとして生きてるわけじゃないもんね。
ただ、つらくてしんどくて、そんな中でたどりついた選択肢が、“死”だったんだよね。
と、ただありのままを認め、受け止めてあげること。
自死遺族は、
何かもっとしてやれたのではないか。
自殺を思いとどまらせることができたのではないか。
自分がちゃんとしていれば。
そういった自責の念を抱えがちです。
ただ、自分を責めてばかりいることは、かえって死者の尊厳を傷つけてしまう場合があります。
大切な人が自らの命を絶ったとき、その死を認めたくない気持ちは痛いほどわかります。
ただ、私が姉を亡くしてから12年経ってふと思うのは、
自ら死を選んだ、という結果に注目するのではなく、
一生懸命生きたんだよね。
つらい状況の中、それでも頑張ろうとしてたんだよね。
と、生きようと懸命にもがいていた姿に寄り添ってあげることが大事なのではないかということです。
“自殺を認める”とは、“死そのものを認める”ことではなく、
死を考えるほど生きたいと願い、葛藤を抱えていた、奮闘していた、
死にたいと思うほど生きようとしていた、
と認めてあげることなのです。
“死”というのは単なる結末であり、その人自身の本来の姿ではありません。
死んだらすべてがムダになる。
死んだらおしまい。
死んだら、その人がそれまで生きてきた過程がすべて無駄になる。
その人が成し遂げてきたことの価値がなくなる。
そうではありません。
自死をする人は、予め死を選ぶ運命を背負って生まれてくるのではなく、
自死という選択肢を持つほどの、過酷な経験をしようと設定してくるに過ぎません。
つまり、
この世に自死を計画して生まれてくる魂は、一つとして存在しないのです。
以前の記事にも書きましたが、自殺する人としない人の違いはほとんどありません。
極限の状態を経験する中で死を選ぶのかそれ以外の道を選ぶかは、魂の選択によって違ってきます。
なので、自死をする魂とそうでない魂がハッキリと区別されているのではなく、
私たちは誰でも、自死を選択する可能性があるということ。
そして自死とは、懸命に生きようとした結果選んだ選択にすぎないということ、ただそれだけなのです。
自死を選んだ魂もそうでない魂も、死後は光の世界へと還っていきます。
どんな魂も、一つとして地獄に落ちることはありません。
そんな中で、私たち自死遺族が本当にすべきことは、自分を責めたり過去を悔やんだりするのではなく、
自死は生きたいと願った結果なのだと、故人の意思決定を尊重してあげること。
懸命に生きようとしていたことを認めてあげること。
生ききったことをきちんと認めてあげること。
ただそれだけなのです。
以上です。
ここまでお読みいただきまして、ありがとうございました💐
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