恥ずかしい経験はたくさんあっていい
突然ですが、私は身長が高いです。
そのせいで電車の棚に頭をぶつけたり、家の中でも、忘れたころに換気扇の囲いに頭をぶつけます。
ちなみに、今日も屋外で帽子をかぶっていたため気づかずテントに激突し、恥ずかしい思いをしました。
思えば、私は引きこもり経験があるのですが、ずっとその経験自体が“恥ずかしいこと”のカテゴリーに入っていました。
今でこそネット上でこうしてプロフィールに書いていますが、現実世界で引きこもっていたことを打ち明けた経験はほとんどありません。
また、前職では自分の気質に合わない職種を選んでしまったので、他の人がラクにできていることがうまくできず、
指導してくれていた先輩職員にドン引きされ、恥ずかしい思いをしたことがあります。
私はこれまでに、アダルトチルドレンやHSPの方を励ます記事をいくつか書いてきましたが、
未だに自意識過剰な性格から些細なことで動揺したり、必要以上に一喜一憂したり、落ち込んだりすることがあります。
そしてそのときに、自分ってなんてダサいんだろう、なんて才能がないんだろう、なんて出来の悪い人間なんだろうと落ち込んでしまうことがあります。
自分の全部を否定したくなり、自分のことがまったく信じられなくなってしまいます。
人の行動には2つの動機しかないと言われています。
それが、“不安”か“愛”であり、この2つが対極的な概念とされています。
私はずっと、この“不安”と隣り合わせの状態で生きてきました。
その名前の通り不安障害を患い、症状は治まったものの、未だに手の震えに悩まされることがあります。
ただ、この不安という感情と向き合うほど思うのが、
不安を感じれば感じるほど、愛に向かっていくエネルギーが増幅されていく
ということです。
人は不安を感じると、自分が自分から離れます。
自分は愛されない
自分は無価値な人間だ
自分は誰からも必要とされない
などと、自分が情けなくて、恥ずかしくて、やるせない気持ちでいっぱいになります。
しかし、本来の自分は自分を否定的に見ていません。
表層意識で自分が失敗した、恥をかいたとみなした出来事も、深層意識ではただの現象としかとらえていません。
その出来事を“不安”に結びつけるのか、“愛”に結びつけるのかは、常に私たちの判断にゆだねられています。
私はこれまでずっと、ありとあらゆる出来事を“不安”に結び付け、自分を窮屈な場所に追いやってきました。
そしてまた、そんな状態に対して自己嫌悪に陥ってきました。
しかし思ったのが、
不安になればなるほど深層意識との間にギャップが生じ、愛に向かうエネルギーとなるのではないか、
ということです。
私たちは不安になればなるほど、
そうじゃないよ
あなたは全然ダメじゃないよ
あなたはそのままで素晴らしいんだよ
もう何も頑張る必要はないんだよ
もう誰かに好かれようとしたり
無理に我慢したりする必要はないんだよ
という愛のエネルギーになっていくのではないかと思ったのです。
恥ずかしい経験をすればするほど、それがエネルギーとなって自分を愛せるようになる。
愛の方向へと向かっていく。
恥ずかしい経験は言ってしまえば、愛にたどりつくための“ファストパス”のようなもので、
恥ずかしい経験をすればするほど、ファストパスが溜まっていって愛に最速でたどりつけるものなのではないか、
と、私は最近になって思ったのでした。
恥をかいてきた人生は、それだけ実りがあると言えます。
恥をかいてきたぶんだけ、愛の大きさ深さを実感できます。
私自身はまだ道のりの途中なので、偉そうなことは言えませんし、
今はというと、その入り口にようやくたどりつき、ああそういうことかと言わば愛の門をしげしげと眺めている感覚です。
しかしこれだけは言えるのが、
不安を愛に変換することは一見難しそうでも、落ち着いて自分の心を眺めてみると、
自分はただ自分から愛されたかった、認められたかった、褒められたかっただけなのだということにたどりつく
ということです。
不安になったときは、どうかあなたの心をやさしく見つめてあげてください。
くれぐれも自分を否定したり、軽視したり、ないがしろにしないであげてください。
愛はずっとあなたの中に存在していて、これからもあなたの中に在り続けます。
恥ずかしかった経験を、どうか不安に結び付けたままにせずに、あなたの中にもともとある愛へと向かうエネルギーに変えていってください。
恥をかけばかくほど自分への愛がより深まるととらえ、恥をかいた経験こそあなたの中で大切に、大事に扱ってあげてください。
参考文献↓↓
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