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春霞の村「ショートホラー」

山間の小さな村。春になると、この村は霞に包まれる。特に朝霧の濃い日は、人々は外を出歩かない。それは、古くからの言い伝えがあるからだ。


「霞が深い日は“春鬼”が歩く」


春鬼とは、この土地に宿るもの。誰もその正体を知らない。ただ、霧の濃い朝に村人が忽然と消え、残された者たちは、霞の向こうから聞こえる囁き声に震えながら戸を閉ざすのだった。


ある日、旅の学者がこの村を訪れた。霧の中に潜むものの正体を知りたくてやって来たのだ。村人たちは彼を止めたが、学者は「この目で確かめる」と言って、霞の立ち込める朝に一人で外へ出ていった。


霞の中を進むと、耳元で何かが囁く。「こちらへ…」「あなたはだれ…?」声は子どものようであり、老婆のようでもあった。学者は慎重に霞をかき分けると、そこに一本の古い桜の木が立っていた。その根元には、無数の白い骨が埋もれていた。


その瞬間、霞が渦を巻き、無数の影が浮かび上がった。影たちは学者を見つめ、優しく手招きする。「ようこそ…」


彼は夢中で筆を走らせた。これが“春鬼”の正体なのか? だが、紙に記された文字は霞のように揺らぎ、やがて消えていった。気づけば、自分の手も透き通り始めていた。


翌朝、霞が晴れた村には、もう彼の姿はなかった。ただ、桜の木の下に、新しい根が一本、静かに伸び始めていたという。



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