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水継ぎの村

山を越えた先に、「水継ぎの村」と呼ばれる集落がある。


その名の通り、村には古くから続く「水継ぎ」の儀式があり、毎年夏の終わりに、川の水を特別な壺に汲み、村の中央にある井戸へと注ぐのだという。


「それを怠ると、村の水は途絶えてしまう」と言い伝えられている。


***


旅の薬師・葵(あおい)は、その村へと足を踏み入れた。


村は静かだった。家々の屋根は苔むし、あたりには湿った草の香りが漂っている。


「なんだか……変な気配がするな」


村人たちは確かにそこにいた。だが、彼らは皆、どこか様子がおかしかった。


誰もが顔を伏せ、水を汲むような仕草を繰り返している。


「あなたも、水を継ぎに来たのですか?」


突然、老婆が声をかけてきた。


「水を継ぐ……?」


葵が尋ねると、老婆は静かに微笑んだ。


「この村は、水とともに生きています。けれど、ある年、水継ぎを怠ったのです。そのとき――村人の影が、消えました」


葵は言葉を失った。


気づけば、村人たちの足元には、影がなかった。


「影は、水が運んでくれるものです。この村の水には、人の魂が映るのですよ」


葵は井戸のそばへ歩み寄った。井戸の中を覗くと、そこにはただの水ではなく、無数の影が揺らめいていた。


それは人の形をしていた。顔も、仕草も、まるで生きているかのように。


「……まさか」


「水継ぎをしなかった年に、影は水へと沈みました。それ以来、村人は影を持たぬままとなったのです」


葵は震えた。


影を失った人間は、本当に人間と呼べるのだろうか?


「もし、また水継ぎを怠れば……次に沈むのは、影だけでは済まないでしょう」


老婆の言葉に、葵は息を呑んだ。


「旅の方、もしよろしければ、あなたの影を……ほんの少し、村の水に分けてはいただけませんか?」


葵は答えられなかった。


ふと、気がつくと、井戸の水面に映る自分の影が、じわりと滲んでいた。まるで、水の中へ引き込まれるように。


葵は慌てて後ずさった。


村人たちは、ただ静かに彼を見つめていた。


葵はすぐに村を離れた。振り返ることなく、ただひたすらに歩いた。


山道を越え、ようやく別の町にたどり着いた頃、葵はふと気づいた。


地面に落ちるはずの自分の影が、少しだけ薄くなっている。


まるで、少しずつ水に溶けているかのように――。



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