阪神淡路大震災から30年
1995年1月17日、午前5時46分。阪神淡路大震災が発生しました。私は当時学生で、全国から集まった仲間と寮生活を送っていました。冬休み中だったため、ほとんどの学生は実家に帰省していました。私もその一人で、自宅の布団の中でこの日を迎えました。
いつものように6時頃に起き、何気なくテレビをつけました。画面に映し出されたのは、信じがたい光景でした。道路は裂け、ビルが倒壊し、あちこちで火災が発生している。救急車や消防車もスムーズに動けない混乱の様子が、映像を通じて伝わってきました。その時はまだ状況がはっきりわからず、ただ「何かとてつもないことが起きた」という不安だけが胸を締め付けました。
冬休みが明け、寮に戻ると関西出身の先輩や同級生が一人、また一人と帰ってきました。しかし、彼らの顔には普段の明るさがなく、皆どこか疲れ切った様子でした。被災地での体験や、家族や友人の安否確認に苦労した話を聞く中で、震災の現実を改めて痛感しました。同室の先輩は、それ以来夜電気を消すことができなくなり、寝る時もずっと灯りをつけたままの日々が続きました。心の傷は深く、一朝一夕には癒えないものだと感じました。
私自身も、震災発生から3ヶ月後、ボランティアとして現地に向かう機会を得ました。学校系列の施設が関西にあり、それを拠点に物資を届けたり、復興活動を手伝ったりするためでした。私たちは車に物資や自分たちの食料を積み込み、長い道のりを走りました。
現地に着いて目の当たりにしたのは、テレビでは伝わらなかった現実でした。倒壊した家屋の屋根にはブルーシートが掛けられ、風に煽られる音が昼夜問わず響いていました。夜になると周囲は真っ暗になり、復旧がまだまだ進んでいないことを思い知らされました。多くの人々が不自由な生活を送りながらも、それでも前を向いていました。その姿に胸を打たれる一方、自然災害の恐ろしさを改めて感じました。
震災を経験したことで、備えの大切さを強く意識するようになりました。災害はいつ、どこで起きてもおかしくありません。非常食や水を備えるのはもちろん、避難場所の確認や家族との連絡手段を話し合っておくことも重要です。また、物質的な準備だけでなく、助け合う心や情報を共有する意識も忘れてはならないと思います。
阪神淡路大震災から30年が経ちましたが、当時のことは今でも鮮明に覚えています。この経験を無駄にせず、災害に対する備えや意識を次世代に伝えていきたいと思います。大切な命を守るために、私たち一人ひとりができることを考え、行動していくことが必要です。
被災された方々、そしてその家族の皆様が抱える深い悲しみや痛みは、決して消えるものではありません。それでも、今を生きる私たちは、その苦しみに寄り添い続けることができます。そして、災害を乗り越えて歩んできた力強い姿が、今を生きる人々の心の支えになっていることを忘れないでください。一人ではありません。つながり合い、共に未来を歩んでいきましょう。