認知症の姑の介護体験で感じてきたこと⑨
レビー小体型認知症を患っている姑と同居を始めて数年たった頃の事。
姑は、杖はついていたが歩けていたし、ある程度は世話や見守りは要ったが、自分のことは何とかやれていた。
デイサービスやショートステイなどにも慣れてきて、私も姑も日々色々大変なことはあるが、それなりに生活のリズムはできてきていた。
そんな頃、娘が里帰り出産で帰省してきた。
妊婦ではあったが、家事も手伝ってくれた。出産を控えての準備も、母娘で楽しみながら買い物に出かけていた。
その時間は、娘の結婚前には中々持てなかったものだったので、私にはとても嬉しい時間だった。姑との様々な葛藤を忘れさせてくれる時間にもなっていた。
そして迎えた娘の出産。おかげさまで、無事に産まれた赤ん坊は女の子。
只々可愛いだけだった😍
そんな喜びの中ではあったが、娘と孫が退院してくると、二人の世話と姑の事で忙しさは倍増。娘婿も泊まりに来る。やっぱり気を遣う毎日。
そんな頃だった。姑が階段を3段目まで昇ったところで踏み外してこけた。
右手を着いて手首を骨折してしまった。利き手なので、たちまちできないことが増えた。
2階にあった姑のベッドと鏡台を一階のリビングに続く和室に移動した。
寝る部屋が変わったことで、混乱して幻視も酷くなった。せん妄も出て、右手の骨折のことも忘れて、どうしてこんなところに寝さされているのだと、怒りだす。
レビー小体型認知症はパーキンソン症状があって、元々手が震えてご飯を食べづらそうにしていた姑。
手づかみで食べられるようにご飯もおにぎりにしたり、おかずも小さく切ってフォークで食べられるようにした。
それでも、そうでなくても震える左手では、中々口には運べない。私がスプーンで食べてもらおうとしたが「そんなことはせんでいい」と意地を張る。
「もう好きにしたら」と言って、私は家族が座っているダイニングテーブルに戻ったが、食欲はわかなかった。
しばらく見ていたが、ボロボロとこぼすばかり。私が見かねて側へ行くと、イライラした姑は、食べ物を私に投げつけた。
「何てことするの!」と私は、そこに夫も婿も娘も息子もいる前で、思わず姑に怒鳴りつけていた。
私の大きな声に、家族皆が振り返った。
夫が驚いて「おふくろ、何したんや‼️」(関西人です)とまた怒る。
私は「いいよ、いいよ」と、娘婿もいる手前、これ以上空気を悪くしたくなくて、そう言って夫を制した。
「はぁ〜😔」と一息ため息をつきながら姑が投げた物を片付けた。
怒りを通り越して、ただ虚しくて悲しかった…
それからも赤ん坊が近くで寝ているにも関わらず、イライラして、赤ん坊に向かってなのか、私たちに向かってなのかわからないが、物を投げたりした。「お母さん、何なの?!」と私は怒りで頭に血が昇っていた。
姑にひ孫を可愛がってもらえると思っていた娘は、相当ショックを受けていた。
娘には、「今のおばあちゃんは、認知症のせいで、前のおばあちゃんではなくなっているから」と納得させた。
骨折するまで、右手で杖をついて、右に傾く体を支えながら歩いていた姑は、杖をつくことができなくて、歩くことを怖がるようになっていった。
トイレに行くことも、怖い怖いと言うので、手を引いてやっと連れて行った。
ズボンもおろせないし、ペーパーで拭くこともできないので、毎回トイレの介助が必要になった。
そんな状態なので、粗相をすることも増えた。
ある時、「お母さん、着替えをしないと」と促しても、ビショビショのズボンで和室の畳に座ったまま、「嫌だ」と言って、何度言っても頑なに身体を硬くして動こうとしてくれない。
布団も畳も濡れている。
「風邪ひくでしょ!」とまた言ってみる。
早く何とかしたいのに、動かない姑に私の堪忍袋の尾が切れた…
「もう、いい加減にしてよ!」と言った次の瞬間、思わず私の手は姑のお尻を叩いていた。思わず…だった。
これが虐待か?
叩いた手が痛かった。心も痛かった。
何とも言えない複雑な思いが涙と共に溢れてきた。情けなかった。
ちょっと冷静にならなくてはと、その場を離れた。
二階の部屋から降りてきた娘に、「おばあちゃん、着替えてくれそうにないから、しばらくそのままにしておいて。またそのうち、寒くなったら言うこと聞いてくれるでしょ。ちょっとお母さん、出かけてくるし。」と言って、しばしの時間、近くの湖沿いの道を車で走った。
湖岸の駐車場に車を停めて、穏やかな湖面と対岸の山々を眺めて何度も深呼吸をした。少し心が落ち着いた。
自然は私の心を癒してくれる…
姑に手をあげてしまったのは、後にも先にも、あの時だけだったが、今思い返しても、辛い思い出だ。
そうするうちに、立つこと自体も怖がるようになり、姑はたちまち歩けなくなって、車椅子生活になった。
手を骨折しただけなのに、こんなに早く、寝たきりになってしまうの?と驚きだった。
ある時はまた、姑はハンガーストライキでもしているかのように、食べることはもちろん、水も飲んでくれない日が2日続いた。
往診に来てもらったかかりつけのお医者さんに、点滴しましょうと言われても、「いらない」と返事する始末。
お医者さんも、「大変でしょうが、何とかイオン飲料だけでも飲んでもらえるように、頑張ってみてくださいますか?どうしても喉が渇いたり、お腹が空いたら、食べてくださると思いますよ」といわれて、帰っていかれた。
どうしていいかわからない私は、以前お姑さんの介護を経験された知り合いの方に相談したくて電話した。
その方は「うちもそんな時があったよ。今から伺うわ」と言ってすぐに我が家に飛んで来てくださった。
「うちのおばあちゃんは、何も食べなくても、このジュースだけは飲んでくれたんだけど。良かったら、飲むか聞いてみてあげてね。」とジュースを持ってきてくださった。
そして、ひとしきり私の話し相手になってくださった。気持ちをわかってくださる方がいてくださる、それだけで良かった。それだけで救われた。
只々ありがたかった…
いろんな人に支えられての日々だった。私の周りには親身になってくれる多くの方がいてくれた。
人の優しさに支えられて、窮地に立たされた私でも、何とか人として道を踏み外すことなくいられたのかもしれないと心からそう思う。
その後しばらくして、やっぱり我慢できなくなったのか、「お茶が欲しい」と言った姑の一言に、心底ほっと胸を撫で下ろした私だった。
娘と孫、寝たきりになって一層認知症が進んだ姑の世話に、疲弊していく私を見て、夫は「もう十分だよ。お前が潰れてしまう前に、おふくろには施設に入ってもらうことを検討しよう」と言ってくれた。
ケアマネージャーさんも、何とか急いで入れる先を探しますからと言ってくれた。
かかりつけのお医者さんに施設入所を考えると告げた時、「お嫁さんの立場で、なかなかこんなにちゃんとお世話する方は少ないですよ。よくここまで頑張られましたね。もう十分だと思いますよ。」と、申し訳なさそうな私を、温かい言葉で励ましてくださった。有り難かった。
すぐには施設が見つからないことはわかっていたが、少し先が見えた思いがして、それまでは頑張ろうと思えた。
私の体も事実、悲鳴を上げかけていた。関節が痛み出していた。後にこの頃から関節リウマチを発症していたことがわかるのだが…
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?