恋人よ…
間もなくクリスマスというイベントが去り、日常と向き合う必要に迫られる今日この頃 野口五郎である。
なんのこっちゃ。
てな訳で、軽いジャブはこの辺にしておき、本日は出会い(出逢い)と別れについて考えてみた。
わーお!
なんだか堅苦しい課題だな…などと早合点をせずに。
まぁまぁ、肩の力を抜いて、そもそもボキは読者に気難しい発想を与えるほど賢くはない脳足りんな輩ですよん。
じゃぁ、どのような事柄で進めるのかと申しますと、いつもであれば映画を参考に物事を進めるのですが、今回は音楽を題材に話して行こうと思う次第です。
みなさまご存じのとおり、今は元号が令和となり、21世紀に相応しい新しい時代へと突入しております、はい。
ですが、ボキは昭和生まれのアナログな人間からすれば、どうもデジタルという響きそのものに嫌悪感とまではいかないまでも、モード・ドーモで、歯痒さを覚える始末なんですね、ええ。
その点、昭和という時代はゆるくてわかりやすいよな〜
などと懐かしく思うこともよくありますよ。
現在のような重低音が先行する流行歌と違い、生演奏がビシッ!と決まった音源が当たり前に日常を包み込んでいましたから。
で、流行歌といえば、真っ先に演歌というジャンルに突き当たる。
だが個人的にどうも演歌特有の湿っぽい歌詞が苦手である。
演歌に限らず「惚れた」の「はれたの」といった音源はハイビートでも内容が演歌と紙一重というロックもどきな存在も苦手だよ。
さて、要するに「御涙頂戴」的な利己的な身勝手さに同意できないのだろう。
そこで改めて演歌とは無縁の歌手を考えてみた。
すると必然的に淡谷のり子女史が真っ先にボキの単細胞の中から脳裏を駆け巡るのであった。
生前の映像を見る限り、淡谷のり子女史は演歌に限らず単なる流行歌を毛嫌いしていた。
また淡谷のり子女史といえばシャンソンである。
シャンソンは単なる流行歌ではなく、人間の奥底に潜む詩的な感情を呼び覚まし、言葉とリズムに合わせ人である喜びと悲しみ、または苦痛を唄う総合芸術であるとボクチンは理解しているのだ。
淡谷のり子女史ほど成熟した年を送っていないボクチンだが、女史が生前に絶賛していた表現者またはアーティストである五輪真弓を偉く褒めていたコトはいまもなお色あせるコトなく記憶の中を過ぎる。
中でも「恋人よ」という楽曲は随分と気に入っていた様だ。
そうそう、よく聴くと演歌でもなければ単なる流行歌ではない。
哀しみ、悲しみといった人の感情が滲み出る哀歌なのだ。
こういったコトがシャンソンなのかは単細胞なボキには不明だが、人間臭さを司る点は理解できる。
こちらが元祖である五輪真弓女史バージョン♪
わーお!
どちらも素晴らしいぜ!
淡谷のり子女史の辛口トークを交えても同じだぜ!
きゃっ☆
美空ひばり女史バージョンもまた最高だぜ♪
あっは〜ん♪しびれすぎてまさに今夜は最高!てな具合だ♪
あちゃー!
河合奈保子女史あ~んど五輪真弓女史のデュオも必見だぜ!
恋人よ…
響きが懐かしく想える。
懐かしさを語るのであれば単なる懐古主義のオッサンと変わらない。
重要なのは今なのだ。
『かつて…』なんてもんは古臭いし格好悪いから捨てちゃってさぁ、『今…」』を見つめ続けないと。
恋人よ…
が過去形なのか、現在進行形かによって解釈が大きく変わるのも事実なのだから。
わーお!
久しぶりにうまくまとめたような気がする。
やればできるじゃん!じゃん!
てな具合で、イベントとは無縁の最愛なる小さな家族と共に今を支える喜びを噛み締めるのであった。
にん by 伊東四郎