パッタイとナショナリズム
「タイのナショナリズムのシンボルとしてのパッタイの歴史」翻訳
サマリー
1932年クーデターにより絶対王政から立憲王政へ移行。タイは植民地化を免れるため、近代化を迫られていた。
Phibunsongkhram(ピブーン)は、タイを統一することを目的に12の文化的規範を導入する。
上記政策の一貫として、政府は麺を推奨。米粉麺は、より少ない量の米で生産できるため、米不足による影響の緩和を助けた。
もともと米粉麺は中国系移民が売っていたため、上記12の規範に反してしまう。そこで、政府は、米粉麺料理のタイ化(生産業従事者の入れ替え、タイの食材利用)が行う。
この絶対王政後のナショナリズム政策のなかで、「タイ風炒め」を意味するパットベプタイが生まれ、パッタイと呼ばれるようになる。
2002年移行、国の経済活性化のための観光政策「グローバルタイ」プログラムにより、パッタイが国際的に普及する。
イントロダクション
炒め米粉麺料理は、1930年代後半から1940年代、タイのファシスト首相、Plaek Phibunsongkhram によって、推奨され、レシピが広められた。政府は、パッタイは、新たな文化政策と共に経済を強化し、海外からの干渉を防ぎ、健康的な食を促進し、多様な民族の統一を補助すると考えていた。パッタイは、市民の王政への愛着を統一的なタイ文化と置き換えるための国家のポスト絶対主義イデオロギーだけではなく、タイの近代化への前進も反映している。
文化を通したタイの社会的イデオロギーの再建
タイの政治的および経済的状況は、政府が市民の文化的慣習に介入せざるを得ない状況を生み出し、それがタイの価値観やタイ料理の台頭に寄与し、その後のパッタイの広まりへの道を切り開いた。
1932年6月24日、「ピブーン」として知られる軍人であるPlaek Phibunsongkhramがクーデターを先導し、150年にわたる絶対王政が終了した。国が政府体系として立憲王政を採用してから6年後、ピブンは首相に就任し、長年タイを支えてきた制度の突然の変化により、さまざまな経済的および政治的課題に直面した。第二次世界大戦後に連動して、タイは、タイ市民からの長期的支持を失うかも知れないという危機感の一方で、インフレと消費財不足を経験した。国家も、もし、タイが十分に近代化されていることを示さなければ、近隣諸国のようにヨーロッパ権力にって植民地化されるリスクにさらされていた。結果として、前述の課題の悪化を防止するため、ファシズムの原則に頼ることとなった。
ピブーンに先導され、1930年代後半政府は、当時イタリア、ドイツ日本のナチファシズムのぽピュラリゼーションによるナショナリズムの意識を根付かせることで、タイを統一しようとした。人口統計上、タイには核として、仏教とイスラム教をもつ中国やマレーシアなどの国からの移民を含む多様な民族がいる。しかし、政府は、個人が宗教的、文化的、言語的信仰を表現することは、国家の不安定化に繋がり、同一的な価値観に制限されるべきであると考えた。
結果として、政府は、ナショナリズム、権力と統一の建立、優れたタイ文化の建立のもと、完璧な国家建立の3つの主要な側面を含む国家建立制度を導入した。強固なタイ文化の建立における制度の最後の側面は、政府の制度の最も重要なパートとなった。新しい文化と市民のナショナリズム意識の建立によって、政府は、タイ人は新しい統治システムと近代化への道をより受け入れるようになるだろうと考えた。
文化的規範
ピブーン首相は、1939年から1942年にかけて、経済的困難に対処し、国内の紛争を防ぐために、タイ文化を強化することを目的とした12の国家布告を発布した。しかし、これらの布告の根底にある目的は、軍事的な統治スタイルへの移行を国民に浸透させるとともに、他国が「タイの価値観」に干渉するのを防ぐことにもあった。
以下の規範では、タイ国民に国歌を採用すること、外国人への援助を停止すること、そしてタイ語のみを話すことを促すなど、ファシズム的な規則が示された。
1.国、人々、ナショナリティはタイと呼ぶ
「シャム」という名前が自由を意味する「タイ」に変わる。
2.海外からの干渉を防ぐ
規制、ビジネス、食を通して「タイらしさ」を強調する。
3.タイ人を地域別に呼ぶことを控えるように促す
分裂を防ぐため、すべてのタイ人に対して「タイ」という名称を使う。
4.国旗を尊重し、国歌に敬礼する
”もしも国旗、国歌、王歌を尊重しない人を見かけた場合、その重要性を理解させるために注意を促すこと。”
5.タイ産の地元製品を消費し、タイ産の農産物を栽培する
タイ料理の台頭とパッタイにつながる
6.タイ国歌
”国家の歌詞は軍が提出したものとする”
7.タイ人は安定した職業を持つことによって、国の建設に貢献すること
職業を持たない者は尊敬に値しないことを示す。これは、近代化された国家には勤勉な市民が必要であるという信念と関連している。
8.1940年の王歌において、「シャム」という言葉を「タイ」という言葉に置き換える
新しい国の名前を反映するため
9.タイ語を話し、敬意を示す
市民の義務としてタイ語を読み書きできるようにし、他の人々にもそうするよう促す。
10.タイ人は自分の地位に応じて適切な服装をすること
11.全てのタイ人の標準的な日常活動
時間を仕事、個人的な活動、休息・睡眠の3つに分ける。
1日に食事は4回以内、睡眠時間は6〜9時間とし、仕事や義務を忠実に遂行する。
昼休みは1時間を超えないこと。1日の終わりには、最低でも1時間のスポーツや身体活動を行い、シャワー後に夕食をとる。
12.子ども、老人、障害者をたすけること
公共の場所や道路で。この規範に従う者は文化的な人とみなされる。
”我々は、他国のように文明化されなければならない。そうでなければ、タイは無力になり、すぐさま植民地化されてしまうだろう。しかし、我々が、高度に文明化されれば、我々は、統合を維持することができるだろう。” Plaek Phibunsongkhram
反中国下の「昼食のための麺」
12の規範から明らかなように、ピブン政権はタイ社会の均質化の必要性を感じるとともに、外国勢力の侵入を恐れていた。1930年代、タイにおいて多数派の中国人移民が農業や食産業を支配していたため、政府はすぐさま、中国系の人々を悪者扱いし、「共産主義者」から国を守ると主張し始めた。「タイ化」として知られる経済的プロセスにおいて、国は、中国語を禁止し、中国人ベンダーや商品がタイのビジネスのための市場をつくることを妨げ、中国のイデオロギーを寄せ付けなかった。
中国人ベンダーの禁止にも関わらず、タイ政府と市民は、主に食糧不足に対抗するため、もともと中国系移民によって売られていた米粉麺をタイ化した。タイは、第二次世界大戦中経済不安定化そして、その後すぐに1942年の大規模な洪水を経験し、それは、米不足に寄与した。米はタイ人にとって重要な食料源であることから、国民に対する食料不足とそれに続く経済不況が差し迫っていた。
政府は、中国式の米麺が、タピオカ粉などの豊富な補助材料を使用することで、1人を養うために必要な米の量を半分に抑えられることに注目した。したがって、国は、地域の米粉麺を米の代わりとして大衆化し、小麦粉と水のみからつくられた麺を輸入した。政府は、広報部に様々な麺料理の準備方法のハンドブックを配るように命じただけではなく、タイ人ベンダーにすべての県、地区、学校で麺料理を販売するよう要請した。ピブーンは首相演説で、タイ人は「昼食に麺」を食べるべきだと発表した。タイミングのあった米粉麺の導入と大衆化によって、より効果的な食料戦略が可能となった。
麺のタイ化
しかし、麺はまだ、中国のものだと考えられていたため、麺料理を食べることは、政府の規範に反してしまう。したがって、ピブーン政権は、米粉麺の生産、調理、分配のプロセスに介入した。はじめに、政府は、タイ人に食産業に従事することを推奨し、1940年代初頭には食品および農業産業の主要な生産者の一部を中国系からタイ人へと移行させた。タイ人がこの分野に増えることで、「伝統的に中国の食文化に関連していた」麺料理の材料が「タイのもの」となり、次第に全国で中国の食文化に属する他の料理の形態も「タイのもの」へと変わっていった。
同時に、コックは、中国麺料理をより「タイらしい」ものにするため、タイの要素を取り入れることに苦悩していた。コックは、彼らが、タイの香りだと思う香りを加えることで、タイバージョンの麺料理を創り出した。例えば、料理人たちは、タイの唐辛子を使うことでオリジナルのパッミー(小麦麺の炒め物)を差別化し、タイ人に人気のある辛い味を生み出した。このタイスタイルに変化した調理方法は、「タイスタイル炒め」を意味する「Pad baeb Thai」と呼ばれた。この「Pad baeb Thai」というフレーズが後ほど進化して短縮されたフレーズ「Pad Thai」となり、これが、パッタイ(Pad Thai)のはじまりとなった。
第5の文化規範とパッタイの広がり
中国の麺料理がタイ風の麺料理へと進化したことからも明らかなように、パッタイが特定の日付に誰か一人によって生まれたわけではない。パッタイは「発明された」わけではなく、政府が国民に米麺とタイ料理の消費を奨励したことから、非線形的に進化した中国の麺料理にルーツを持つ。この場合、パッタイは戦後のタイにおける深刻な米不足への便利な解決策となり、また、国の近代化の一環としてタイにナショナリズムの意識を植え付けようとする政府の成功した試みを反映していた。
さらにその料理をタイ化するために、政府はその料理にタイ産の地元製品を含めるべきだと決定した。一般的な中国風炒め麺とは異なり、政府は伝統的なパッタイのレシピには、通常の米麺の代わりにチャンタブット米麺を使用し、干しエビ、黄色い豆腐、ライム、ニンニク、もやし、そして豚肉の代わりにタイバナナの花「フア・プレー」を使うべきだと提案した。これは豚肉が中国の肉と見なされていたためである。米麺という主食、定番の野菜、そして豆腐やエビなどの安価で豊富なタンパク質の組み合わせは、当時のタイ市民にとって完璧な食事を提供した。満腹感があり、栄養も豊富で、最も重要なのは経済的であった。
パッタイにタイ産の製品を取り入れるというこの決定は、12の文化的指針のうち第5項、「タイ人はタイ国内の産品のみを利用すること」という地元製品を支持するよう呼びかける規範と一致している。この布告は、パッタイのようなタイ料理の消費がタイのナショナリズムの政治的シンボルであることを示している。布告の序章において、Phibunsongkhramは直接的に、第二次世界大戦中において、タイ人にとっての「ナショナリズム」を尊重することと「国の農業と生産業をサポートする」ことの重要性を述べている。彼は、パッタイの消費は一部物質的理由によることを示し、タイ製品の消費は国の経済を活性化するだろうと説明した。
文化的指針は直接的に「パッタイ」を挙げなかったにも関わらず、Phibun songkhramは彼がどのようにタイ人に「タイにルーツをもつ、もしくはタイで生産された食べ物のみを消費する」ことと「政府がサポートする食べ物と製品を消費する」ことを指針の5点の2つとして推奨したか明らかにした。例えば、ピブーンはタイ人にもやしを栽培し、輸出することと、もやしをパッタイを含む、タイ料理に使うことを推奨した。本指針は、タイ人は「タイで生産された服のみを着る」ことや「農業、生産業、タイ人の地元の知識をサポートする」ことなど、他のナショナリズム的な推奨も行った。これらの5つのポイントがすべてタイ国内製品の消費を強調していることから、この布告は、パッタイのようなタイ料理が後期絶対王政以降のナショナリズムに根ざしていることを強く示している。全体として、この政策は、タイ政府が標準的な国民食を確立し、外国との貿易から経済を保護するとともに、国民に自国への誇りを持たせることを目指していたことを強調している。
パッタイの国内外への広がり
パッタイは、その美味しさ、多彩さ、材料を簡単に代介できることから、ピブーン政権治世以降もタイ中部地域に広がった。例えば、肉なしで簡単に作れ、もし、魚を避ける人に出す場合、材料をナムプラーから醤油に変更できる。すぐに、パッタイはタイ各地で食べられるようになった。今日では、パッタイは、ストリートフード店や高級レストランでも同様に、タイ現地人や旅行者から人気の料理となった。
パッタイが国際的に広まった背景には、観光業に大きく依存していたタイ経済を活性化させたいというタイ政府の思惑があった。観光業を活性化させ、タイが単なる性風俗観光の目的地であるという認識を払拭するため、タクシン・チナワット首相の下での政府は、まずタイ料理の海外での人気を高める必要があると考えた。2002年以降、タイ輸出振興局は「グローバルタイ」プログラムを開始し、タイ系民族が経営するタイ料理店の数を増やし、本格的なタイ料理の消費を促進するとともに、タイを訪れる価値のある独自の国としてのイメージを向上させることを目指した。広範な広報キャンペーンの実施に加え、政府は海外で活動を希望するタイ人シェフに料理プログラムを提供し、「海外の食品産業プロジェクトには最大300万米ドルの融資」を行った。これらの政府支援を受けるためには、海外のタイ料理店は「商務省が承認した公式レシピに基づく6つの定番メニュー」を提供する必要がある。要求される料理の一つはパッタイである。
もともと、米粉麺からパッタイへの「タイ化」は、政府の、より簡単な当地のために強力な文化的アイデンティティを通してタイを統合するという希望を反映している。今日、グローバルタイプログラムは、国の語りの再構築において、パッタイを含むタイ料理のパワーを明らかにしている。タイ料理を世界に広めることで、タイは、海外のオーディエンスにタイの文化を教え、タイは、2019年、東南アジアで最も多くの旅行者に訪れられた国となった。パッタイの歴史を学ぶことで、食の共通化がどのように文化と民族を統一したかをより深く理解できる。パッタイは、時間に関係なく、国の近代化とよりよい経済発展の促進可能にします。
おまけ(コメントなど)
パッタイはタイの経済的状況、政治によって社会的に構築されたということができそう。
また、「タイ料理」の社会的構築について卒論を書く時に注目すべきは、主に、1930年だい移行になりそう。その前は、そもそもタイという意識はなく、西洋の国々の植民地化の危機の中で、その意識が生まれた。トンチャイによると、地図による領土の確定によって、タイ人はタイ人になった。流れとしては、植民地化の脅威、イギリス、フランスとの接触→領土の確定→政策によるタイの統一?
では、なぜ、現在タイはパッタイではなくトムヤムクンんを世界遺産申請しているのか?パッタイはタイ料理であるが、中国にルーツを持つため?政治の影響が強すぎる?やはりタイ料理には米が重要なのか?
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