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一時的な喜びと永遠なる至福


今朝、家人と話していて気付いたことがあるのでメモ。

その1

子供のころ美味しいものや好きなものを食べても、その喜びはその時だけで、食べちゃったら消えていく、という感覚があり、むなしさを感じていたのを思い出した。

それは食べることだけではなく、いろいろなものに言える。一時的で消えていくものに対する空しい気持ち。人はそれを補完するために、次に楽しいこと喜びを感じることを探すことになる。

五感を満たすこと、感情的な満足を満たすこと、自己承認欲求を満たすこと、それに対して、ある種のむなしさを察知すると、そこから離れたくなる、ということが自分の中で長らく繰り返されてきた。

人間って、どこかで、一時的なものと永遠のものの識別力を持っていて、本当は永遠なるものを探し求めているのではないかと思う。でも、すぐに見つからないから、五感や感情や思考が快を感じるものを絶えず探し求める。

一時的にでも自分を満たすものに出会ったら、それをずっと繰り返して依存症的になる、もしくは、満たされている時間とそうではない時間の中で、幸福と落胆の間で躁鬱状態になる。

自分が育ってきた時代は、そうはいっても、まだ玉石混交の中に、何か永遠性を感じるもに出会う機会は、今よりは多かったのかもしれない。今は、子供たちがそういうものに出会える機会はどれぐらいあるのだろう。

その2

自分にとっての喜びや幸せを感じることや物がわかってくると、それを常時手にすることができないのならば、そうできる時を目標に頑張ってみる、ということも人間はできる。

それは、ウイークデイは頑張って働いて週末休む、定年まで頑張って働いて定年後はお金と時間を得て好きなことができる、というパターンを生み出す。

自分も社会に出てからはそのようにして生きていたのだけれど、ある時、頑張る時間(ある意味何かを我慢する時間)と、自由な時間が分かれているのはどうなんだろう?と思った。

何かを我慢して、どこまで頑張ろうが、本当の意味での自由や喜びは手に入らないんじゃないかということに気づいた。

それから、そのパターンをやめることにした。どうやってやめたんだっけ?と思い出してみると、おそらくボディワーク系のことを仕事でやっていたので、そこからヒントを得ていたような気がする。

緊張するときとリラックスするときに分けるのではなく、常にリラックスしつつ、自由でどちらにでも行けるという身体の使い方がある。人生も同じだなと思った。

そう簡単にその状態を実現できるわけではないけれど、近づけることはできる。

その2は自覚していたが、その根底には、その1のような感覚があったなということは言語化できるほど自覚していなかった。でも、大事なことだ。

その感覚は、刹那的な喜びや快楽と空しさの中での葛藤、永遠なるものを切望するが、なかなかたどり着けない葛藤や苛立ちとして、誰もの中に存在しているのではないかと思う。その意識が深くに隠れているか、自覚できるほどに浮き上がってきているかの違いはあれども。

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それらについての話は最近読んだヨーガスートラの一節にあったわ。

スートラ39

平安はまた、ハートにとって最も大切なものに集中することによっても得られる。

このスートラ39は非常にシンプルではあるが、それ自体強く訴えかけるものがある。その中に獲得にいたる様々な段階をたどることができる~欲求、切望、所有することへの強い決意、要求を満たさないすべての拒絶、新たに所有するために手を空にすること、そして所有することそのもの、満足、平安。

しかし低位の欲求に関係するあらゆるものの場合、平安は一時的なものにすぎず、新たな欲求が沸き起こり、保持することに喜びを見いだしてきたものを手放す。幾多の時代の結実であるものだけが、そして遠い昔に所有していたものの再獲得だけが十分な満足を生むのである。

そのため、自分のハートにとって最も大切なものが一時的なもので、つかの間のはかないものであるかどうか、もしくは、それが偉大なる主が言われたような「天に積まれた宝」であるかどうかを調べ、確かめなければならないのである。

『魂の光~パタンジャリのラージャ・ヨガ経典』より

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