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暗い森の少女 第二章 ①偽りの家格

偽りの家格


「花衣ちゃん、ずいぶん娘らしくなったわね」
着物の着付けをしながら、ふっくらとした顔に笑顔を浮かべて、葛木本家の女婦人は言った。葛木家400年祭があり、一族に花衣が紹介されたのが3歳のときだ。
あれから7年間、花衣は正月や法事など、葛木家に「墓守の娘」として招かれる。
「葛木直系の墓を守ってい筆頭分家」と言うのなら、まだ曾祖母は存命だし、血のつながりでいうなら花衣と一緒に葛木家の養子になった母が「墓守」なのだと思う。
だが、葛木の当主夫妻も、谷に住む葛木家のひとたちも、
「花衣こそ正当な跡取り」
として扱う。
葛木家ゆかりの墓の管理をしているのは祖母であったし、寺や法事の手配などするのもそうだ。
しかし、祖母はもう松下の家に嫁いでしまった。
もちろん母は働いて、金の工面をしているのは、もう花衣には分かっている。
濃い紫に金の糸で梅の花が刺繍してある着物を着せられ、花衣は女婦人に連れられて大広間に向かう。
上座に白髪が増えた当主が座っている。恰幅のよさは変わらず、血色のいい顔をもつ当主に老いの気配はそれだけだ。
「花衣ちゃん、こっちにおいで」
すでに数十人の大人たちが座っている中、花衣は当主に呼ばれるまま、隣に用意された席に座る。
祖母の席は花衣より少し離れていた。
祖母はおどおどと落ち着かない様子で、周囲を伺い、花衣を見、当主婦人の顔色を気にしているようだ。
(大丈夫)
ここに来るまで、花衣はいつものように母の選んだ赤い別珍に白いレースの襟のついたワンピースを着ていた。
だが、当主夫妻が、葛木家に代々伝わる着物を花衣に着せたいと言ってきたのだ。
祖母はまるで恐れおののくように固持したが、柔らかい物言いだが有無を言わせない当主の迫力に押される形で受け入れざるえなかった。
花衣の着付けに祖母もついていきそうにしていたが、先に宴会を楽しんでいるように婦人に言われ、祖母は泣きそうになりながら花衣を婦人に預けるしかなかったのだ。
(あざは作ってないよ、おばあちゃん)
冬は遠洋漁業の船に乗って漁にでる下の叔父は、1ヶ月に1回ほどしか帰宅することはない。帰ってきても友人たちと飲み歩くか、家にいても機嫌良く酒を飲むこともあるが、花衣への暴力が完全になくなったわけではなかった。
年末に帰宅したときも、下の叔父は深酒をして正体をなくし、黙って酒の相手をしてた花衣の腹を殴ろうとしてきたとき、花衣は自分でも驚くような冷静さで下の叔父に囁いた。
「今度のお正月に、葛木のおじさんの家にいくの」
青い血管がミミズのように走る拳を、下の叔父は止める。
葛木の当主夫妻には母と同い年の息子がいるが、血族に年齢の釣り合う女がおらず未だ未婚だ。
また、当主自体が葛木家の嫡男ではないということに引け目を感じているようで、この頃は花衣を手元で育てたいとしきりに言ってくるようになっていた。
葛木家から毎月送られてくる養育費は、曾祖母が管理していたのだが、最近まだらぼけが始まってしまい、祖母が通帳の管理をするようになっていたが、そのお金を母に黙って下の叔父に渡していることを花衣は気がついている。
今後、花衣が葛木本家に引き取られることになった場合、当然養育費もなくなる。
松下の家計は母が支えているが、養育費を使い込んでいることが分かれば、母も松下の家を出てしまうかもしれない。
酔っ払った頭でも、そんなことは想像がついたようだった。
叔父は怒鳴り散らして家具を蹴り倒し、家の中をめちゃくちゃにしてから家を出て行く。
台所で料理をしてた祖母が居間に戻ってきたときには、すでに叔父の姿はなかった。
祖母はいつものように花衣が殴られたのだと思っている。
しかし、顔など目立つ場所にあざも傷も出来ていなかったので放置していたが、まさか本家で花衣が着物に着替えされるとは想像してもいなかったろう。
腹や腰にあざが出来ていて、それ気がつかれたと思うと気が気ではないだろう。
いつしか、花衣は自分の中に冷たい「なにか」を育てていった。
それは、叔父の暴力や、それを黙認する祖母、花衣に関心のない母、村の人々からの嫌悪を含んだ視線、それに追従する子供たちの行動が、黒い雪のように花衣の心の中に降り積もって徐々に素の花衣を覆い隠すようになってしまってたのだ。
花衣自身の思考は徐々に不明瞭になり、自分が思ってもいないことを口走ったり、また、花衣が言った覚えのないことで後日責められたりすることも多くなる。
自分の記憶が曖昧に途切れ、服を破って家に帰ったり、下着姿で誰もいない林の奥で眠っていることも増えた。
破かれた服で家に帰ったとき、祖母は生まれて初めて、花衣を叩いた。
「なんてこと! なにをしたの! この子は! この子は!」
鬼のような形相で花衣の頭を叩く祖母が恐ろしく、花衣の思考はぶれていき、二重に重なった何かが、「本物の花衣」を超えてしまったのだ。
「おばあちゃん、ごめんなさい。三好のおにいちゃんとおうちの裏の山で遊んでいるときに転んで崖から落ちちゃったの」
「三好さんの?」
ほぼ村八分の松下の家に対して、比較的好意的に接してくれる家だ。
「うん、この間梨畑の木をたくさん切ったでしょう? 切り株が当たって服がボロボロになっちゃったの」
何を言っているの?
自分の口を使って出てくる説明は、花衣には覚えもない。
「でも、三好のおじさんやおばさんに言わないで。……三好のおにいちゃんと鬼ごっこしていて、おにいちゃんに突き飛ばされたから」
「突き飛ばされたって」
やっと祖母が心配そうな顔を見せる。
「ううん、わざとじゃないの。でも、おじさんたちはきっとおにいちゃんを怒ると思う」
花衣の目から、涙がこぼれた。
「おにいちゃんと遊べなくなったらひとりぼっちになっちゃう」
祖母は花衣が村の子供からいじめを受けていることに気がつかないでいた。見ないふりをしていたのかもしれない。
内気な花衣を積極的に遊びに連れだしてくれる数人の子供たちを、祖母は本当に感謝をしていた。
普段からガキ大将とよばれるやんちゃな三好の息子の遊びで、怪我をしたり服を破いたりすく別の子供も多い。
だから、祖母は花衣の言葉を信じたようだ。
「まあまあ、しょうがないわね。この服は繕っても直せそうもないし、仕方ないけど捨てようね」
優しい祖母に連れられて、花衣は脱衣所でボロボロの服を脱いで、そのまま沸かしてあった風呂に入った。
(私が三好の息子と遊ぶわけないじゃない)
花衣の表面に出ている『花衣』が、湯船に顔を埋めながらそう思っているのが伝わってくる。(今日のおじさんはもう次はなし。ルールも守れないなんて)
花衣の頭は完全にお湯の中に沈んでいた。
(明日にでも三好を誘ってみるかな。あんまり相手にしてやらないとまずいかも)
花衣はお湯の中でもがいた。
息が続かない。顔を上げたい。
だが、体がまったく言うことをきかない。
(三好となんてまっぴらだけど、あいつを手懐けておけば他も楽だしね)
苦しい。
花衣は口を開けてしまった。肺の中にお湯が流れ込む。
頭の中で高い笑い声がする。
狂ったようなその声が遠ざかると、やっと花衣の体の主導権がもどった。
湯船から顔を出し、激しく咳き込んだ。
洗い場に飲み込んだお湯を吐ききる頃には、なぜ自分が風呂で溺れたのか分からなくなっていた。
そして、葛木本家で当主夫妻や一族に対して、大人しやかに、けれどほがらかに話す自分を、またしても花衣は遠くでのぞくように感じていた。
宴会も中頃、花衣はお手洗いに行くために台所の前を通った。
「……ません」
祖母の声がする。
花衣は、すっと物陰に隠れて耳をそばたてた。
「今日の花衣ちゃんの様子を見ていたらわかるけれど、今後も気をつけてもらわないと困るわ」
祖母より年上らしい年配の女が話し始める。
「あなたも父親から何も聞かされず育ったのは可哀想だけど、それでも葛木の直系なのよ。まさか、子供をあんな風に育てるなんて」
「すみません。言い聞かせます。本当にすみません」
正月だというのに、祖母は陰鬱な嗚咽を漏らす。
「息子さんの不祥事は知り合いの市議に頼んでもみ消してきたけれど、かばいようのないことはさせないんでね。ことが世間に知られたら、本家にも迷惑がかかることになる」
穏やかな口調だが、毅然とした声音が言う。
「娘さんもね……。未婚の母で花衣ちゃんを産んだのはね…。それで花衣ちゃんを養子に迎えることができたのだけど」
「本当に……」
「今、おつきあいしているひとが家庭をもっていることは、あなたもご存知なの?」
「……はい……」
女は深いため息をつく。
「花衣ちゃんの前にもひとり、堕ろしているんでしょう」
祖母の返答はない。
「それなのに、また、ねえ……。お願いだから、花衣ちゃんに間違いがないようにしっかり育てて下さいね。花衣ちゃんは本家が立派な婿を探しますから、ふしだらな風には育てないで下さいね」
「花衣はまだ10歳で」
「花衣ちゃんのおかあさん、最初の妊娠は中学生のときだっていうじゃないの。花衣ちゃんの父親は高校生。そしてまた、望まれない子供を妊娠して堕ろしたんでしょう」
女の声は静かな怒りに震えているようだ。
「葛木本家はいつだって花衣ちゃんを迎える用意は出来ているんですからね。間違っても娘さんのようには育てないで」
花衣はそっとその場を離れた。
長い廊下を、やがて小走りになる。かんざしについている鈴が小さく震え鳴った。
息を切らして辿り着いた部屋は、普段使われていないのか埃っぽく、なのに湿ったにおいがする。
隠れるように部屋に入り込み、足が萎えたように花衣は座り込んだ。
女の言葉の意味をきちんと理解したわけではないが、母の不名誉が話されていた。
(ふしだらな娘)
自分の肩を強く抱く。
気温だけではないおののきに、花衣は震える。
雨戸を閉め切った部屋の暗さに目が慣れたとき、机に写真が飾ってあることに気がつく。
妙に気になり、花衣は机に近寄って、写真立てを手にしてまじまじと見た。
足元から今更のように冷気が立ち上ってくる。
写真たての女の顔は、花衣の鏡の中に時折現れる、20代の女と同じ顔をしていた。

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