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暗い森の少女 第四章 ② 暗闇に蠢く血脈

暗闇に蠢く血脈


「愛子がいない!」
花衣の部屋の襖を激しく開けながら祖母は怒鳴るように言った。
祖母の帰宅は22時を過ぎている。婦人会の会合にしては遅すぎたし、祖母は葛木本家に行く時のように着物を着て、薄化粧までしている。
「知らないよ」
花衣は寝ぼけた声を作る。
「愛子をどこにやったの」
祖母は断定的にそう言い放つ。花衣は冷めた感情を気がつかれないように、眠たげに、だが心配を装った。
「夕方に帰ったときは、愛子はおじさんと遊んでいた。私がご飯を作るとおじさんは怒るし……おじさんもいないの?」
「いない」
祖母はまるで頭を掻き毟りそうである。
「おにいちゃんに愛子を頼んで……食事は用意して出かけたわ。でも食べていないの。どこに行ったのよ」
祖母の動揺から花衣は察知した。
祖母は、愛子が上の叔父になにをされていたか知っているのだ。
『可愛い普通の村の子供』として育てていたはずの愛子ですら、人付き合いの苦手な、30歳直前になっても恋人や女友達のいない『大切な松下家の跡継ぎ』である上の叔父の歪んだ欲望の餌食になることを黙認していたのだ。
そういうひとだったんだ、と花衣の心は夜の冷気の様に研ぎ澄まされ凍えていく。
見ていない、気がついていないふりをし続けたが、こういう本性だったのだ。
「おじさんとドライブでもしているんじゃないのかな?」
花衣はぼんやりとした口調で言う。
いつもの『花衣らしい』、内気で祖母たちの顔色を伺っている様子を作るのは意外と骨が折れた。
「こんな時間まで」
火を噴くような目で祖母は花衣を見据える。
花衣は体をびくりと震わせて見せた。『いつもの花衣のように』。
(平気よ。このひとは殴ってきたりはしないから)
葛木本家から金を引き出す道具の花衣を傷つける勇気はこの女にはない。
そして、今もうひとりの金づるの行方が分からなくなっている。
祖母はほとんど泣きそうであった。
「こんな時間までどこに行っているのよ。おにいちゃんは愛子とどこに」
ぶつぶつと繰り返しながら、花衣の肩を掴んでくる。指が食い込んで痛んだ。
「本当にお前は知らないの? 叔父さんたちがどこに行ったのか」
「知らない」
花衣の一言に祖母はうなだれ、そのままふらふらと部屋を出て行った。
祖母が玄関に置いてある黒電話を使う気配を感じながら、花衣は台所から風呂場に移動する。
風呂場は、昨日の残り湯が風呂釜の黒さを映しながら何事もないように静まりかえっていた。
(確かにこの手で愛子を沈めた記憶はあるんだけれど)
花衣は自分の手をじっと見る。
愛子の柔らかい肌の感触、水の中で虚ろに開いていた目、スカートが水の中で揺れていたことさえはっきりと覚えているのに、愛子はいない。
『記憶』の中では、愛子はあの森のため池の側で争った。
3歳になる愛子からは、明確な殺意が感じられて、花衣はそれに抗うために愛子を思わず殺してしまったはずだったのだが、あれも夢の出来事だったと言うことなのだろうか。
風呂場の壁にある鏡に自分を映してみる。
そこには、今までの、弱く虐げられる事に耐え続ける『花衣』の姿はなかった。
だが、心の奥の鏡の部屋にいる座敷牢の女や、他の3人とも違う何かが、新たに『花衣』の中に生まれている。
それは座敷牢の女のように淫蕩でけれど情が深い女でも、愛子によく似た幼女の残酷さでもなく、ましてや何を考えているのか分からないシワだらけの老人や、思春期の少年でもない、まったく新しい人格のようだ。
(いいわ、しばらくそこで眠っていれば)
『花衣』は鏡の部屋で泣きながら眠っている花衣を感じる。
見ないふりをしていたことを現実として受け止めるには、花衣の心は柔らかく脆すぎたのだ。
(おばあさんに愛されていたなんて嘘。あの下のおじさんに人身御供に出されていたじゃない。おばあさん自身に暴力が向かないように)
実際、花衣が叔父たちにいたぶられようと耐えてきていたのは、「祖母に愛されている」というたったひとつのことだけが支えだったからだ。
母はずっと不在で、村人からも嫌われ、叔父たちから理不尽な暴言や暴力に蹂躙されようと、『祖母は自分の味方』だと思い込むことで花衣は自分を保っていた。
しかし、愛子が引き取られて、祖母は愛子を叔父と一緒に可愛がり、祖母と叔父は夫婦で、愛子は子供といった疑似家族を形成していたのだ。
そこに花衣が入り込む余地がない。
花衣は大切にしていたものも全て愛子に取り上げられ、居場所を見失っていった。
ここでない、葛木本家に行ってしまうということも出来ただろうが、葛木家から毎月送金される養育費を手放したくない祖母は反対するだろう。
(その愛子も、お金の匂いがするけれど)
『花衣』はあちこちに電話をしているらしい祖母の声を聞きながら自室に戻った。
この家は歪んでいる。
祖父が生きていたときはかろうじて保たれていた「普通の家庭」は、祖父の死と共に瓦解した。
葛木本家というあやしげな古い血筋からも、花衣を守ろうとしていた祖父の死に際を思い出す。
痛みに耐えながら花衣の腕を掴んだあの気迫は、あの後花衣の身に起こるだろう悲劇を予想していたのではないのか。
(死人はなにもできない)
『花衣』はベッドに横になりため息をついた。
本当は風呂に入りたがったが、祖母にとがめられるのも、愛子を溺死させた湯船を使うのも嫌だ。
電話の相手は誰なのか、祖母は泣き声になりもう言葉を生み出すことはなかった。
『花衣』はゆっくりと自分の中に落ちていく。ひとにとってはそれは夢という物なのだろうが、『花衣』にとっては、それは現実となんら変わりない世界だ。

心の底にある鏡の部屋の扉は固く閉まっている。
座敷牢の女は横たわる花衣の髪を撫でていた。その女の後ろには目も鼻も口もシワに埋もれた老人がひっそりとたたずんでいる。
10代の少年は、『花衣』を睨みつける。幼女はいつになく生き生きと鏡の部屋の中で笑っている。
(花衣はもう駄目だわ)
座敷牢の女は少しだけ悲しげに言う。
(もう、「こちら側」に来てしまった……葛木の血をつなぐためのただの体だけを現世に残して)
花衣を血の呪縛から逃さないように虎視眈々と狙っていたとは思えない様子だ。
(あなたにとってはいいんでしょう。その方が)
『花衣』の言葉に、座敷牢の女は淋しそうに笑った。
(『私たち』はいつも仲間が欲しかった。この辛い状況で耐えているのは自分だけではないという希望。それが、その女にどれほどの苦痛を与えても、かまわないと思っていた)
(思っていた?)
(たどれるだけでも400年、葛木の女はどうして幸せになることが出来ないんだろうね)
その言葉に、女の後ろにいる老人の姿が、揺れるろうそくの火に合わせて動く影の様に大きくなった。シワの奥から粘い、陰惨な目を女と眠る花衣に向けているようだ。
(お前は誰だ)
ずっと黙っていた少年が、『花衣』に詰め寄ってくる。
思春期の少年らしい潔癖さと苛立ちがこもった声に、『花衣』は忍び笑う。
(私は『花衣』よ)
(違う)
少年は睨みつけてくる。
(お前は……葛木の女じゃないみたいだ)
(そうね)
『花衣』は思考の奥底にある鏡の部屋をゆらゆらを泳ぐ。
球体の鏡の内側は、花衣の悲しみ、怒り、因縁、呪縛が延々と続いている地獄絵巻きだ。
悲しみや怒り、羞恥が万華鏡のように輝いて、まるでなにかの宝物だと錯覚しそうだ。
(そうね、私は葛木の呪いの外にいるわ……でも花衣だわ)
少年はひるんだように見えた。座敷牢の女は沈痛な面持ちでふたりを見ている。
(私も本当はそうだったんだよね)
いきなり幼女が間に入ってきた。
今は冬だというのに、ピンク色のサマードレスを着ている幼女はやはり花衣が手にかけた愛子に似ている。
(血が薄まって、名前も変わって、もう葛木とは関係なく普通に生きていけるはずだったの)
幼女は無邪気に続ける。
(でもプールで死んじゃったの。そして気がついたらここにいた)
幼女は少し首をかしげる。
(私はずっと花衣の中に閉じ込められていた。でも、花衣が「ここにいる」んだったら、私が花衣になればいいんだよね)
幼女はまたはしゃぎ出す。
(やめろ、花衣は、たったひとりだけだ)
少年は叫んだ。幼女はその声に驚いたようにしゅんとして大人しくなる。
(お前は、誰なんだ)
(分からないの)
『花衣』は少年に微笑みかける。
(あの夢の中で、あなたは花衣に会った。あの世界では花衣は両親に愛されて幸せに生きていた。そして、あなたもあそこにいたわ)
愕然とした表情で少年は『花衣』を見ている。
(あの世界で普通に育っていれば、花衣は『花衣』として生きて行けたの。頼もしくて優しいお父さん、本が好きで物知りなお母さん、生意気だけど妹を可愛がるお兄さん。その妹として育った花衣は、こんな中途半端じゃない、本当に精神の成熟と豊かな感情をもった女の子として成長したはずだった)
『花衣』の言葉に、少年は不安に押しつぶされそうになっている。青ざめた顔には汗が浮かび、握りしめた手は細かく震えている。
(でも、それは、叶わない)
『花衣』の言葉に少年は崩れ落ちた。座敷牢の女は痛みを耐えているような表情でふたりを見ている。
(ここにいる3人は「自分で運命を選べなかったもの」の残滓だもの……花衣も、座敷牢の女も、プールで溺死したあなたも、そして、君も)
『花衣』の指は少年を指した。
眠っている花衣以外、老人を除けば、みな暗い顔をしてうつむいてしまう。
老人はシワの中に表情と一緒に感情も飲み込まれてしまったようにぴくりとも動かない。
(私は『花衣』だわ。あの世界で育った『花衣』。あの世界に迷い込んできた花衣としばらくかわっていてあげたかったけれど)
『花衣』は深い息を吐く。
(でも……もう行かなくちゃ)
(どこへ?)
少年が聞いてくる。
(あなたもいずれ帰る場所。ここにいる全ての者が行かなくてはならない場所)
(花衣を見捨てるのか)
(私も『花衣』なんだけど)
苦笑して『花衣』は鏡の部屋から出た。
鏡の部屋で深い眠りについていた花衣が目覚めだす。
『花衣』がこの肉体にいられるのも時間の問題だろう。
帰らなくては、あの世界へ。
いつか、この世界が壊れて花衣も散り散りになってしまったとしても、「あの世界」で花衣が過ごせるように。
決して「葛木家の血の呪縛」に囚われないように。
(いつか私たちはひとつとなって、全ての呪いを解き放す)
『花衣』は頭上にある、真白い球体に飲み込まれていった。

ひどく頭が痛んだ。
花衣は自分がどこにいるのかよく分からなかった。
しばらくして、そこが自分の部屋だと気づく。
何時だろう、時計を見ようとした瞬間、玄関から祖母の悲鳴が聞こえてきた。
花衣は慌てて玄関に向かう。
祖母は受話器を持ったまま、呆けたように宙に視線をさまよわせていた。
「おばあちゃん……?」
おそるおそる、花衣は祖母に声をかける。
祖母はしばらく花衣の言葉が聞こえないようだった。
白目をぐるりと回転させ花衣を見る。
ガタガタを震え、口から泡を飛ばしながら言ったのだ。
「おにいちゃんが」
一言一言、区切るように発音した。
「おにいちゃんが、死んだって……上のおじちゃんが、車で海に飛び込んで、死んじゃったって」
祖母はくたくたとその場に座り込む。
空気の抜けた人形のような姿を見下ろし、花衣はなんと声をかければいいのか考えていた。

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