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暗い森の少女 第三章 ⑨ 鏡に映らぬ真実の姿

鏡に映らぬ真実の姿



日差しの入らない鬱蒼とした森の中に静かな夜が近づいている匂いがする。
瀬尾が語った、葛木家、瀬尾家の過去の因縁に花衣の体が震えるのを止められなかった。
そしてまさか、「あのひと」も、この汚辱にまみれた葛木の家系図に入っている事実に、子供ながら痛ましさを感じたのだ。
「帰ろうか」
夕闇に溶けそうな瀬尾の白い顔を見上げた。
夏の日焼けが嘘のように真白い肌を、花衣は悲しい目で見る。
日焼けをしても軽い火傷のように赤くなるだけで真っ黒になることはなく、秋になればすぐ白さを取り戻す。
(私と同じ)
そう思った。こんなに立場も性別も違う自分たちにも小さいが共通点があるのだと嬉しかった。
まさか、こんな事実が隠されていたとは夢にも思いはしなかったが。
なにも答えずにいる花衣を、瀬尾は慰めるよう言う。
「葛木さん。今更こんなことを言っても信じてもらえないと思う。最初は好奇心、そしておそのあとはひいおじいさんに頼まれて葛木さんのことを気にかけていたけど。でも、今の僕は」
「いいよ」
瀬尾の言葉を遮った。
はじめて会った入学式の時から、瀬尾はいつも花衣に優しかった。
学校のみんなから好かれていた彼は、村八分の家の娘である花衣にも平等に接してくれるただひとりの相手だったのだ。
いつしかそこに、「曾祖父の思惑」が入り込んでいたとしても、花衣は十分に幸せだったと思う。
瀬尾という存在がなかったら、花衣はもっと早くに自分の心を手放し、鏡の部屋の住人に体を明け渡していただろう。
(座敷牢の女)
呼びかけても出てこない。
瀬尾は、座敷牢の女は虐げられた花衣が自分を守るために生み出した人格だという。
花衣が持つおんなに対する記憶は、不用意に大人が話していたことを聞いたのではないかと推測している。それに花衣は素直にうなずくことは出来なかった。
確かに葛木家にかかわらず、祖母や叔父、大人は子供が聞いていることを想像することもなく、色々な悪意、嘲笑、妬みを垂れ流しているものだが、座敷牢の女に関して、少なくとも祖母や叔父が知っていたとは思えないのだ。
瀬尾の話してくれた長い過去の出来事から、座敷牢の女は、花衣の曾祖父、谷から逃げ出した跡取り息子の妹であることが分かった。
女の味方であった曾祖父が、葛木の人間のおぞましさから逃がれ、曾祖父の母の遺骨を持ち出すほどの強い憤りがあったのに、それと前後して瀬尾の曾祖父に助け出されていた妹となぜまったく交流を持たなかったのか。
同じ村の中に住んでいて、会う機会もあったはずなのに、どうして曾祖父は座敷牢の女に会いにいってやらなかったのだろう。
また、葛木家と瀬尾家が縁故であるという事実をしれば、祖母はどれほど歓喜するだろうか。ずっと異分子として村になじめなかった祖母が実は、瀬尾家の現当主、瀬尾の祖父といとこ同士ということは、祖母の虚栄心を満たすには十分なことだろう。
瀬尾はまだ、花衣に話していないことがある。
問い詰めたかったが、これ以上森にいるのは危険だ。
花衣と瀬尾はこの森に馴染み、たとえ冬の淋しい寒さの中でもここで過ごすことが好きだったが、夜になっても戻ってこない子供を探した大人に森の中で遊んでいたとばれてしまえば、もうここには来られなくなるだろう。
ふたりは黙ったまま森を出た。
夏に茂っていた草も枯れて倒れ、まるで野焼きしたあとのようだ。季節のうつろいに花衣はしんとした郷愁を感じる。
外は思ったよりも明るかった。もう17時前だろう。夕闇が迫ってきている。
「葛木さん」
森の外からお互いの家に帰るとき、遠回りになるが別々の道を選んでいた。
それはふたりが親密だと他のひとに知られたくないからだったが、今はもっと重要なことが加わってしまっていたのだ。
「夏木さんは……本当に葛木さんのことを大事に思っているよ」
「うん」
頷きながら、花衣はその名を聞くことが怖かった。
いつも明るい夏木、瀬尾を大切にして、真実の花衣の姿を知ってても優しくしてくれる夏木。
(おかあさん)
心の中で母に問いかける。
花衣の記憶の中の母は、いつも背を向けて花衣を見ない。
幼い頃から繰り返される虐待で、花衣は「村のひと」の顔を認識できなかった。
自身に行われる忌まわしい行為を、個々の人間がやっていることではなく、いつしか「村全体」に巣くう化け物が行っているような気持ちになってしまっていた。
祖母も叔父の顔もよく分からない。
そして、母の顔も。
いつから花衣は母と会っていないのだろう。
それも記憶の泥の中にまみれてもう分からない。
そのまま話すこともなく、瀬尾と別れ帰宅した。
村の境界線から村の内部まで戻ってくると、あちこちの家の灯りがともっているのが見える。
それは誰かを待っていたり、何かを作ったり、笑ったりする家庭のあたたかい象徴であった。
花衣から見たら怪物だとしても、村人には彼らなりの正義とぬくもりがあり、小さくはあったがそれを守るための城である家を守っているのだ。
異分子である花衣に行われる行為は、ある意味村を守るための『儀式』なのだ。
自宅に戻ると台所に電気がついていないため、また祖母が具合を悪くしているのかと思った。
上の叔父の車はあるので、愛子は叔父が面倒をみているのだろう。
花衣は残り湯が残った風呂の栓を抜き、新しいお湯をはろうとした。食事の支度をする前に風呂の用意をしたほうが合理的だと思ったのだ。
そのとき、愛子の高い笑い声がする。
すっかり普通の3歳児にまで成長した愛子は、この頃は祖母や叔父に影響されているのか、花衣を見下した態度を取ることが多くなってしまった。
物を取り上げるのは日常茶飯事であったが、あの目線、まだ舌足らずな口調は、あきらかに花衣を侮蔑しているとしか思えない。
自分が3歳の頃を思い出してもそんな感情を抱いた記憶がなく、花衣は愛子からそのような態度を取られる度に困惑して、そして苛立ちと憤怒の思いが胸の中にたまっていった。
愛子のはしゃいだ声に体調の悪い祖母が起きてしまうのではと、花衣は祖母の部屋を見る。
予想に反して祖母は不在だった。
もしかしたら婦人会の会合でも行っているのかもしれない。村八分だろうが邪険にされようが、村に住む限りそういうしきたりや役割から逃げできないのだ。
愛子は叔父の部屋にいるのだろうか。
この頃愛子は叔父にべったりで、叔父が帰ってくれば抱っこをせがみ食事も食べさせて貰い、風呂も一緒にはいる。
「親子みたいね」
そう祖母は笑う。
花衣は叔父に一度でもそんな風にされたことはなかった。
「なにを考えているかわからん」
大人しい内向的な性格の花衣を嫌い、邪険に扱われ暴言を吐かれた思い出しかない。
そう考えると、酒乱で暴力をふるうことはあっても、下の叔父の方が花衣に関心があったように思う。
それにベタベタと上の叔父に触れる愛子と、それを受け入れる上の叔父の態度に、引っかかるものがある。
叔父が愛子の世話をしてくれているならその間に夕飯の支度をしようと思ったが、どうしても気になり、花衣は上の叔父の部屋前に来てしまった。
叔父の部屋だけが洋室だ。祖父の建てたこの家は知り合いの大工に頼んだそうで、廃材や普段は使わないふしだらけの木を使ってある。
それは歪で異様な雰囲気もあったが、祖父は気に入っていたようだ。
洋室のドアに、のぞき穴があることを教えてくれたのは祖父だった。
ドアは大きく厚い一枚板であったが、3歳の花衣の目の位置より低い場所にある。
「ふさがないの?」
花衣はそう聞いたと思う。
祖父は笑った。少しだけ皮肉めいた笑顔であった。
「悪いことをしなければいいだけだ」
どうして今、そんなことを思い出しているのだろう。
花衣はドアの前に座った。それでものぞき穴はもっと下にあり、跪くような体勢で片目を穴にひっつけた。
ぼんやりとした視界になにが映っているかなかなか判別できない。
手前に見える黒い影は、叔父たちが大切にしているレコードプレーヤーだろう。その奥には背の高い机があって、灰皿や飲み物が置いてある。
ドアのある同じ面に収納があるのでそれは見えないが、レコードプレーヤーと中央に置かれているベッド以外はなにもない部屋だ。
そのベッドで叔父と愛子が遊んでいた。
愛子は叔父の上にまたがって楽しげにはしゃいでいる。
穴は小さく、見える部屋の中は暗く感じたが、上の叔父は笑っているようだ。
いつもむっつりと黙り込んでいる叔父は、優しく嬉しそうに笑っている。
花衣は、傷ついた。
上の叔父を慕ったことはない。いつも重箱の隅をつつくような小言だらけの叔父が苦手であるのは本当だ。
だが、まったく他人の愛子のことは細やかに世話をして、こんなに慈愛の満ちた笑顔で受け入れる姿を見るのは複雑な思いがしたのだ。
不自然な体勢もあったろう、花衣は息が苦しくなって立ち上がろうとしたが、そのとき、ベッドに寝転んでいた叔父が起き上がり愛子を自分の足の間に座らせた。
髪の毛に唇をあてている。そしてそれはどんどん下がっていき、愛子の首筋に到達したとき、愛子はくすぐったそうに笑い声を立てる。
叔父の手は愛子の着ているセーターの中に忍び込んでいる。それは花衣のお古で、母が選んだ毛足の長い毛糸の柔らかいセーターだった。
自分が見ていることに理解が追いついてくるのは、遅かった。
叔父は愛子の顎を持ち上げて、自分の方に向けさせる。
そして、ふたつの顔が覆い被さるのを見た花衣は自覚もないまま悲鳴を上げていた。

「おねえちゃん」
愛子がピンク色のセーターとスカート姿で、花衣を見下ろしている。
あのあと、上の叔父は逃げるように家を飛び出していった。
祖母はまだ帰ってこない。
妙に大人びた仕草で、愛子は床に寝ている花衣に笑いかけてきた。
「やっぱりおねえちゃんは「いけない子」なんだね、のぞき見なんてやったらいけなんだよ」
愛子はこんなにすらすら話せただろうか?
花衣の疑問に気がついたように、愛子は嘲るように言う。
「おねえちゃんだって、「なんにも知らない子供」のふりをしているじゃない。あたしがしたらいけないの?」
何を言っているのだ。
愛子は花衣のまわりをくるくると回りす。
栄養失調ではげていた髪の毛は生えそろい伸びてきて、それを耳の後ろで二つにくくっている。
髪がふわふわと揺れる。結わえているゴムについているガラスの飾りが鈍く光る。
「いろんな男のひとと、あんなことやこんなこともしてきたのに」
愛子の台詞に、冷水を浴びせられたように全身が冷たくなった。
幼女の姿をしているのにこれは成熟した人間の言葉のように感じる。
悪意の塊のような、いやらしい「女」が目の前にいる。
「お金を貰ったりもした。村の子供が遊ぶときに仲間にも入れてもらった。おねえちゃん、自分のことを可哀想って思っているみたいだけど、それは違うんじゃないかな」
花衣はなにも反論ができない。言われるまま自分の罪に震えていた。
「ねえ」
動きを止めて、愛子はしゃがみこみ花衣の目を覗き込んだ。
「おねえちゃんは、もうこの家にいらないんだよ?」
無邪気な笑顔から想像もできないほど冷酷な声が言う。
「『普通』じゃなくて『ふしだらな娘』はいらないの。愛子は大丈夫、上手くやるから。誰かれ構わずそんかことはしない」
のどを震わすように笑う愛子に見覚えがあった。
「早く『あっち』に言っちゃえ」
鏡の部屋の中にいる、あの幼女。
この家に来た時は歩くこともできない、壊れた人形のようだった愛子は、気がつけばあのピンク色のワンピースを着ている子供にそっくりに育っていたのだ。
細い指が思いもよらない力で花衣の首を締めつける。
「死んじゃえ」
天使のような笑顔を浮かべる愛子の指を無理やり引き離す。
(ここは、少しだけ寒い)
ふたりはいつの間にか、あの森に来ていた。
緑色によどんだため池の底から、誰かが呼んでいる気がした。
その事に気を取られている隙に、愛子が花衣をため池に突き落とそうとしてきたのだ。
小さな子供とはいえ力任せに体当たりされ、花衣はふらついた。
(このまま池の底に沈んでしまえば楽になれるのかな)
花衣は確かにそう思ったのだ。
体から力が抜ける。3歳児に殺されるという馬鹿げだ状況に、何もかもどうでもよくなり、諦めて目を閉じた。

気がついたら、花衣は自宅の風呂場にいた。
服を着たまま、風呂桶を見下ろしている。
冬になろうとする時期、残り湯は冷たく指がかじかんだ。
視線の先には、虚ろな目を開けて、唇を開いた愛子が、水の中に沈んでいる。
ピンクのセーターは半分脱げていて、フリルのスカートがひらひらと水に泳ぐ様は可憐にさえ見える。
それは、再び壊れた人形に戻った愛子の姿であった。
花衣はまたしても悲鳴をあげたが、それは喉を震わすだけで声。
風呂場の鏡にぼんやりと誰かの姿が映っている。
それが誰なのかわからないまま花衣の意識は遠ざかった。

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