
その木陰で、誰かが泣いているような
窓を開けたり、外を散策していると、ほのかに甘い香りが漂って来る季節になった。
日中は暑いのに、日が落ちると途端と寒くなるこの季節、この香りが嗅ぎたいために、窓を開けている。
祖母が好きだった金木犀は、これだけ微かな匂いだと、遠い所で咲いているのだろう。
私には、血のつながらない、戸籍上の祖母がいる。
祖母が一人娘だったのに、長男に嫁いだから、祖母の生家は跡取りがおらず、叔父たちは嫌がり、結局、未婚で私を産んだ母が、どこにも嫁ぐ気がないようなので、曽祖母の養女になったのだ。
この曽祖母は、祖母とは血のつながらない、後妻さんだった。
どんなことがあったのか知らないが、決定的な事柄があり、祖母と曽祖母は仲が悪かった。
また、ひ孫にあたる私のことは可愛がってくれていたが、孫の母や叔父たちのことは毛嫌いしていて、孤独な人だった。
私が生まれて、母が養女になった後も、一人暮らしを続けていたが、体が効かなくなったのか、気づけば祖母と母の住む我が家に同居していた。
しかし、6畳の和室に篭りきりで、食事も、私たちとは別のものを祖母が用意して部屋まで持っていく。
曽祖母が部屋から出てるかのは、そのお膳を下げに来る時だけだった。
私は曽祖母が嫌いでなかったし、曽祖母は私を可愛がってくれていたが、祖母や母たちの手前、あまり部屋には遊びに行けず、曽祖母も、頻繁には声をかけなかった。
私はぼんやりとした、夢見がちな、自分の中に閉じこもり気味な性分だったので、それがいつからあったのか、覚えていない。
まず、曽祖母の目が悪くなった。
近眼だとか老眼とかでなく、長い入院を必要とするものだった。
確か、手術もした。
しかし、何度かの手術、入院も、曽祖母の視力を奪う病魔からは守ってはくれなかったようだ。
曽祖母の和室に、ベッドが置かれたのはいつだったろう。
祖母が、いつもイライラとして、怒りっぽくなっていったのはいつだったろう。
気づいた時は、曽祖母は、自分で食事も取れず、お風呂もトイレも1人では出来ない状態だった。
母は仕事を理由に、叔父たちは家に帰ってこず、私は中学に上がり、部活の練習や遠征で忙しくしている間、あの日の当たりにくい、崖の下に建てられた夏でもひんやりした家の中で、祖母は、曽祖母に、暴力を振るうようになっていた。
揉め事はいつも結局はお金だ。
曽祖母は、曽祖父からの遺産だけでなく、祖母の兄達の戦争恩給をかなりの額受け取っていた。
血のつながりはないが、戸籍上の母だというだけで。
もともと曽祖母を嫌っていた祖母は、この事が耐えられない事だったようだ。
そうして、うちには全く援助なかったのに、多額のお金を、曽祖母の生家にあたる、遠い親戚のしているある宗教への寄付に与えていた事がわかり、その事で揉めていたのはなんとなく覚えている。
ある日、部活から帰った時、曽祖母の部屋から、怒声と悲鳴が聞こえてきた。
恐る恐る覗くと、祖母は、曽祖母の髪を鷲掴みにして、部屋中を引きずり回していた。
「お前のせいで!お前さえいなければ!」
見たこともない歪んだ顔、呪詛のように繰り返す罵声。
私は身動きが取れず、立ち尽くした。
祖母が、私に気がつき、部屋の襖を黙って閉める。
その後、大人達の間でどんな話し合いがあったのかしれないが、曽祖母は、二度と帰ってこない入院をした。
(18の時に、私が入院した精神科だった)
一度だけ見舞いに行くと、もう、目も見えず、人としての尊厳も失われて、両手を括られ、唸るだけの何かの生き物になっていた。
私が16の秋、母と祖母が慌ただしく出かけた。
曽祖母が危篤だそうだ。
私は家で待機するように言われ、犬と猫達と、ぼんやりと本を読みながら待っていた。
数時間後、懐かしい黒電話が鳴る。
出ると、曽祖母の入院している病院の看護師からで、曽祖母が亡くなったと。
母と祖母はどこにいる?とパニックになっていると、母達が帰ってきた。
今晩が峠だと言われた母達は、葬儀の手伝いに来てくれる村の人たちへ出す、お茶だの茶菓子だの新しい座布団だの買ってきていた。
おおこばあちゃん、死んじゃったって、電話あった。
母達は、荷物を放り投げて、また出掛けていった。
私は、ゆっくりそれらを片付けて、家中を掃除して、座布団は日に干し、客用の湯呑みやらを出してきた。
曽祖母が帰って来ると、大人達は痩せた小さな体をひっくり返し、死装束を着せる。
背中には、真っ赤な、生々しい褥瘡。
私の記憶は数日なくなり、気づけば、火葬場に行くマイクロバスの中だった。
火葬場に行くのは、その時で3回目だったが、臭い、とは違う、少し独特のにおいのある場所だと思う。
すっかり焼かれた曽祖母は、骨より灰の方が多いような有様だったけれど。
火葬場の人の案内通り、骨を骨壷に入れていく。
サラサラと、真っ白な灰の中の、細い骨。
誰も泣かない、祖母と母の意向で、曽祖母方の親戚は誰も呼ばない、儀式としての儀式。
それを見て、私は泣いた。
曽祖母の死が、悲しかったわけでなく、理由もわからず、涙がこぼれた。
大人達は私が悲しんでると思って、労ってくれたけれど、もう、最後の入院をした時点で、人間としての曽祖母は亡くなっていたようなものだから、空恐ろしいほど悲しくはなかった。
誰も悲しんでない、私も悲しくない、血縁には見送られない、血のつながりなのない、まやかしの関係の中で、最後を見送られること、それが恐ろしくて、泣いたのかもしれない。
すっかり日が落ちて、無口なみなと帰る頃には、もう秋の虫達の声がうるさいほどだった。
香典のことなど、財産のことなど、揉め始める気配を感じて、私は犬と一緒に部屋に閉じこもり、ウォークマンで大音量で音楽を聴きながら、窓を開ける。
隣の家の金木犀が強く濃く香る夜だった。
あれは10月。
私の誕生日の翌日に亡くなった曽祖母。
今では、誰もその名を口にすることはない。