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好きな人ほど

 私は好きな人ほど信用できない。多分。

 そういう感情には「蛙化現象」と名前が付いている。「かえるの王子様」の話になぞらえて、自分が追い求めているうちは魅力的に見えるモノや人が、いざ手に入れると急速に魅力を失う。そうなってしまうのは、自分に自信がないからとか自己肯定感がないからとか説明されている。自分を好きじゃないから、そんな自分を好きだと言ってくれるなんてこの人はおかしいのでは? と思ってしまうのである。不幸な体質である。少しずつ自分を認めてあげましょうとか、ありのままの自分にも価値があると思えるようにしましょうとか、言われるやつである。

 ネット記事さんは随分簡単に言うけど、それが出来たら苦労しないよねえと思う。毎回。

 だけど私の蛙化現象らしき感情には、自分由来以外の理由もあるんだろうなと気付いた。多分根本的に人を信用していない。信用できるという経験を積んでいない。

 人は変わる、嘘を吐く、自分に有利な立場の方に逃げる。いじめの経験によって、そういう周囲の人間の姿を小さい頃から見続けてきたから、自分に甘言を言ってくる人をありがたいと思いながらも、心の底からは信用できていない。自分が親しいと思っていた人がいじめに加担してきたり、私が苦しんでいる時見て見ぬふりをしたり。何度も何度も嫌な目にあって、その度に「私は悪くない」と思って踏ん張ってきたけど、「悪くない」っていくら心の中で叫んでも私は少数派で、ひとりぼっちだった。私の方が正しくないから、異端だから、ひとりぼっちなのでは? 多数決を前提とする学級運営ファックユー。

 集団の構成員との衝突というのは、いじめという明確な形を取らなくても、社会に出た時にも多かれ少なかれある話だ。沢山の人で社会を成り立たせているのだから、合う合わないはあって、その中でも折り合いを付けながらやっていく必要があるんだと思う。私は確かにいじめに遭っていた(あれは勘違いではなかった)と思うけれど、もしかしたら「そういう衝突もあるさ」と理解できていたら、その後もう少し楽に生きられたのかもしれないと、今なら思う。でも、私は子供で、繊細で、まっすぐすぎた。

 元々人に関心がなかったのか、関心を持たないようになったのかはよく分からない。私はなるべく人と近い距離で接するのを避けるようになった。

 そんな風に、根本的には人を信用していないのに、人と通い合いたいという希求、これまでの失敗を取り返したいという欲望は根強く残り続けた。上の学校に行けば変わるかも、クラスが変わればきっとと。私の中の根強く深い諦念と、しつこくしぶとい希望は当然、相反する。人と意気投合した時「この人こそ白馬の王子様(王女様)だ」と思いたい気持ちと、「いやいや信用するな」と尻込みする気持ちや行動がずれる。自分の思考の板挟みになってしまう。本当に救世主だと思うなら、もっと安心して身を委ねていればいいのに、それが出来ない。出来ない自分が苦しい。本当に自分のことを好きなの? それ、変わってしまうよね? ……いつものように。

 救世主だった人は、「君ってこんな人だったの?」と言って去っていく。人を信用しない心は無尽蔵に愛を求めてしまうので、重い。私から信用されていないことをうっすら感じ取って嫌気がさしたり、無力感に襲われるというのもあるのかもしれない。それ以外に、ただただ私の性格が付き合いづらくてやってられないってこともあるだろうけれど。

 知人には、なんでそんなに自信がないのと言われる。私が持っているモノは、外見にせよ能力にせよ、客観的に見ると結構いいモノらしいのに、まるでそう思えないのである。しかもまるでそう思えないと私が思っていることが、周囲を息苦しくさえさせるらしい。困ったものだ。そして少し脱線した。

 ……こんなことを、もう二児の親になっている私がいまだに書けてしまう。もう二十年以上前の話で、あらかた消化したつもりでいても、私が人付き合いの困難さを感じる根元はやはりここなのだと思ってしまう。こういうことが、他責でなく、自分の性格として定着してしまっていることが根深いなあと他人事のように思う。全然他人事じゃないけど。

 いじめた子達は性根の腐ったサイテーな奴らだったとは思う。今ではもうどうでもいいけど、それでもどこかで会ったらカチンとくるだろうなぁと思うくらいには嫌いだし、許せていないと思う(顔を見てその人だと分かるかは別として。多分私は気付かないだろうと思う)。けれど、いじめをした子達だけを悪いと言い切れない自分がいる。

 最初は小さなつまづきで、私の責任ではなかったようなことだったかもしれないけれど、私のなかに人を刺激する爪があって、私はそれを人との関係のなかで引っ込めたり、先っぽを研いで丸くしたりすることができなかったのだろう。一度苦手意識が出来ると、人の間で揉まれるという経験を避けようとするし、一定年齢以上になると、お互いそんなに深いところまで入り込まなくなる。私の心の海は暗青灰色に凍ったままだ。むろん、そこに生き物は住んでいない。

 なんで突然こんな話をしようと思ったかというと、ありていに言うと創作の意欲がわかないので自分の話をしようかなと思ったというのと、noteをつらつら読んでいて、ママ友女子会をしていた人が「もういい年だから、お互い傷付け合わない距離感で接しられる」というような趣旨のことを書いていたからだ。

 私は全然自信ないなあ……。

 いや、多分子供の園などではすごく距離を取って接していると思うけれど、そもそも園で他のママさんと交流をあまりとらないようにしてきたのは、変に近付きすぎてしまったり近付いてこられてまた嫌な思いをするのが嫌だからだった。上の子が園にあがるとき、バス通園であまり交流ができないことに加え、「いやあ、気が合う人がいなさそうだし……」と交流を避けてきたけれど、改めてあれは防衛反応だったんだろうなあと思う。それで、これを読む人を困惑させるかもしれないけど、私の根っこに周囲への信用の無さみたいなのが巣食っていることを一旦認めてもいいのかなと思ったのである。そう、冒頭の「そんな自分を認めましょう」ってやつである。いや敢えて書かないまでも知っていたけれど、逃げずに宣言してみてもいいのかなと。

 世間一般の人は、どういう時に「人と通じ合えた」と思うんだろうか。あるいは「この人は信用できる」と思うのだろうか。私は他人も信用できないし、それと同じくらい自分も信用できない。そしてもうこれは一生こうなんだろうなと思う。突き詰めれば、全てが移り変わるものなのだから、信用できるものなどないのかもしれなくて、世間一般の人の「人と通じ合えた」は半分目を瞑った状態でなされているかもしれなくて、その程度で満足するのが正しいし幸せなのかもしれないけれど。

 私の中には、人と通じ合えた最高のイメージとして、火の鳥未来編のマサトとタマミの関係があるらしくて、でもそれはフィクションだから存在できる至高の状態であって、現実世界でそれを追い求めてはダメみたいなのである。少なくとも私のような卑賎の身には大それた願いなんだと思う。つーかタマミ、人じゃないしね。この話は長くなるので、もしまた話す気持ちになったら。


note30日チャレンジ22日目 累計 36,163文字(オフライン含め38,576文字)

 

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