かがり火は消えるか 企画参加
カヤが、本当に俺を?
これはウミヒコが幾度となく願い、夢にも見た未来であったはずだ。今やウミヒコの腕の中にいるカヤの体温をはっきり知覚できるのに、まるで現実味がない。それは、荒れ狂う海に囲まれているからだろうか。
ウミヒコはこのままカヤの言う通りにしようと思おうとした。しかし、黒いもやもやとしたものが消えない。ウミヒコは避けてあった木の枝を火の弱まった薪にくべた。
「海のやつらを欺くには、少しでも長く燃えていた方がいいだろう」
ウミヒコの言葉に、カヤはぱっと顔を明るくした。じゃあついてきてくれるのだな、と言いかけた彼女の口を噤ませたのは、彼の表情だった。
「でも、俺は証拠がほしい。お前が、俺のことを……」
ウミヒコはみな言い終わる前にカヤの着物に手をかけた。砂浜に押し倒されたカヤは抵抗したが、まるで子供の遊びであった。いくら彼女が男勝りとはいえ、そしてウミヒコが日頃タツノヒコなどの若い衆に、軟弱だと馬鹿にされているとはいえ、女の細腕と、若い盛りの男が全身で迫ってくる勢いとは比べようもなかった。
「んっ……! やめっ……」
「カヤ、カヤ……!」
二人のもつれた呼吸は、海の波音が全てかき消していった。鈍い痛みがカヤの下腹部に走り、思わず絶叫した彼女の唇にウミヒコは唇を合わせた。組み敷かれているカヤではなく、ウミヒコの目の方に涙が浮かんでいた。男と女が一緒に逃げるのだから、いずれこうなると覚悟していた。けれど、こんな。カヤはただ篝火に照らされたウミヒコのひとみが、いつもより茶色く透けてキラキラと美しかったのだけが、信じられる何か、彼の思いの証のように思えた。
カヤが目覚めると、辺りはしらじらと夜が明けていた。昨日の交わりは二度、三度に及び、カヤはそのまま寝てしまったらしい。彼女の足元には黒い炭の山と化した篝火の残骸があるだけで、体を交えたはずの男の姿も、持ってきていたわずかばかりの旅支度の荷物もどこにもなかった。あられもない姿であったはずの彼女の帯は、きちんと締められていた。
「カヤ、ウミヒコはどこに行った」
海の風で荒れた、がさがさした聞きなれた声はタツノヒコであった。カヤは、自分の脱走劇が始まる前に終わってしまったことを知った。
△ △ △
この旅も今日で十四日ほどになる。海から寄せる風は段々と厳しくなってきており、ウミヒコは足元が悪くても、獣に襲われる危険があっても、なるべく木の生い茂る山側を歩いた。時々木の陰に座り、乾燥させた餅を少しずつ齧って食べた。沢に出会うと、清冽な流れに幾度も竹筒を沈め、道中口を潤す蓄えとした。
この辺りは土地が痩せていて、どの里ももっぱら漁業に頼っていることは分かっていた。目的は達せられそうにもない。歩き損であるとウミヒコはふっと思い、いや、この世に損などということはないのだと思い直した。
足元に、粗末な植物の繊維でできた家が幾つか集まった集落が見えてきた。手の届くところにありそうに見えるが、実際は一時、いや、二時以上かかるだろう。今度の里にも、すげなく断られるに違いない。「これも修行か」ウミヒコはひとりごちた。
「長ー! 長ー! お坊さんがいらしった」
長と呼ばれて出てきたのは、女性であった。
「この辺りの長をしている、カヤと申す。貧しいムラで、大したものは出せぬが、寺の普請に何も出せないのは不甲斐ない。持って行ってくだされ」
カヤは魚を干したものを都の行商人に売って貯めたという銭をいくつか紐から外し、僧に差し出した。
「かたじけない」
「頭をお上げくだされ。もう夕刻が迫っておる。この辺りは夜になるとクマが出るゆえ、今晩は泊まっていかれるとよい」
僧は自分の家に泊まれというカヤの申し出を断り、浜で一晩を過ごすと言い張った。それではと、カヤはムラの者に簡単な食事と篝火を用意させた。
「このムラの長がおなごであるのは、なにゆえか」
稗の粥と汁物を持ってきた若い娘は、僧の、堂々として伸びやかな声に頬を染めながら答えた。
「お、長は……はじめは夫を持っておりましたが、疱瘡で男手が次々と倒れ、長になられましたのです。カヤさまが長になられましてから、漁業だよりではいけないとのお考えから、耕作に取り組み、暮らしは豊かになったと、皆喜んでおります」
「そうか、そうか。して、カヤ殿は今はおひとり身か」
「ええ。あ、でもお子が一人……もう十になるでしょうか。頼もしい男の子でございますよ」
カヤは訪ねてきた僧の笠の下からのぞく目元にどこか懐かしさを感じ、いつまでも眠れずにいた。海からの潮風は、彼女が脱走を試みたあの日のように吹きすさんでいる。ついに居ても立っても居られなくなり、僧に掛ける物を届けに行くのだと自らに言い訳をして家を出、浜に向かって走った。
カヤが洞窟に着くと、そこにはまだ燃えている篝火と、空になった椀だけが残っていた。
〈了〉