褒め言葉が嫌いだった
小さいころから、褒め言葉が苦手だった。
正確には、茶化すような褒め言葉が嫌いだった。
小学生の頃、僕は両親とともにレストランに食事に来ていた。そこでの僕は凄くウキウキしていたと思う。何を食べようかなと、メニューをめくる手は止まらなかった。そして、僕はたしか、焼き魚の定食を選んだのだ。
僕は魚が大好きだったから。素直な気持ちで、いちばん食べたいものを選んだ。
ところが、その後の言葉で冷や水をぶっかけられた気分になった。
「渋いチョイスだね」
あまり子供が選ばないものだからか、両親は笑っていた。
僕は、なんだかその言葉に、とても嫌な感じを受けた。
子供なりに、自分の選んだものが、何か間違っていたのかと思ってしまった。
「渋い」とはなんだろう。少なくとも、世間の”普通”とは違うようだ。僕は、足元が不安定になるような、自分の好きなものが揺らいでしまうような、そんな気持ちになった。
普通じゃないのかな。
運ばれてきた焼き魚の定食も、いつもより美味しくなかった。
20年以上経った今、僕は今でも褒め言葉が苦手だ。
「すごいね」とか「上手だね」と言われると、いやいや「こんなの当たり前ですよ」とか「他の人に比べれば普通です」と素直に受け取らない。いやな大人だ。
きっとあの日から、僕は褒め言葉が苦手になったのだ。たぶん、両親には悪気はなかったのだろう。むしろ、両親なりの褒め言葉だったのかもしれないと今は思う。
でも、あの出来事から、褒め言葉を受け取るのが苦手になってしまった。
言葉の裏には何かがあると、何か含みがあるのではないかと、常に気になってしまう。自分の好きなものがあっても、おおっぴらに言うことはしない。なぜなら、「それは普通とは違うね」と言われるかもしれないからだ。
今ここにいるのは、目の前に好物の焼き魚の定食があっても、素知らぬ顔で、何も期待してませんよという体で、仏頂面をしながら注文する大人だ。
それでいい。
それが世間の普通なのだから。
僕はもう、あの日より前の焼き魚の定食の味を思い出せないのだろう。