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自己複製子は永遠の夢を見る ~スピノザとダーウィニズム

【前回までのあらすじ】

 哲学者スピノザはいろいろ考えた結果、唯一絶対の神とは「自然そのもの、自然の法則そのもの」であると確信するに至りました。そうするとすべては自然科学の法則によって決定された化学反応の連鎖でしかなく、自然の一部である人間も、神=自然の法則の中でしか生きられない、どう頑張ってもあがいても「その頑張りやあがきの度合いすらも神が事前に想定した運命、その結果も決定付けられた自然の営みであって偶然などはない」となるのであるが、じゃあ人間はどう生きればいいっていうんですか・・・

(前回「脱力系スピノチスト宣言」はこちら



 この世に存在するものは、この世に存在し続ける力を持っていないと存在し続けられません。この、個々の存在が神に与えられた内在的な力をスピノザは「コナトゥス」と名付けました。

 コナトゥスとは大きく分けると、より良い状態のための⓵自己保存と⓶自己増殖のための力だそうです。要は「一個体を改良修復し、ガッシリと存在し続けさせる堅牢さ」と「次々とコピーを生み出し、改良し続ける複製能力」ということでしょう。それらのどちらか、あるいは両方をバランス良く持っている存在のみが、次の時間軸にも存在し続けることができる訳です。適者生存です。

 例を挙げましょう。「月」とか「富士山」とか「オーストラリア大陸」とかは長いこと存在しています。それらが存在し続けているコナトゥスは「硬くて大きくて丈夫」だという自己保存の性質です。もし富士山が2秒で崩れるような砂の山だったら、存在し続けられないし、個別の存在として認識されて名前を付けられることもないでしょう。

 一方、「人」や「猫」や「ミドリムシ」や「結晶化しつづける何か」や「波」は、一つ一つの物理的存在の寿命(自己保存の力)は短いですが、次々と同じような実態を生み出す能力(自己増殖の力)によって名前を付けられるほどの実態として存在し続けています。

 人とは、ある程度の自己保存の能力と、自己保存している間に自己増殖する能力によって存在し続けている概念だと言えるでしょう。


 ここで、「いきもの」と「いきものでないもの」について少し考えておきましょう。

 ある物質の結晶が六角柱の形をしていてぐんぐん伸びるように成長し、ある程度の長さになったら自重でぽきっと2つに折れ、そのそれぞれがまたぐんぐん成長して・・・というのを繰り返すとすると、この結晶はどんどん数を増やすので自己複製子と呼べなくもないですよね。材料が尽きたらそれ以上増えられないのは人間も同じです。より増殖が速い形状の結晶のほうが多くなるのも人間と同じです。

 同じく「波」も、風とか海流という力に頼りつつも、どんどんと同じような形状の「名前を付けられるようなもの」を自分の後ろに次々と生み出し続けているので、自己複製子と呼べるでしょう。エネルギーが尽きたらそれ以上増えられないのは人間も同じです。より存在しやすい形の波のほうが多くなるのも人間と同じです。

 では、結晶や波と人間との違いは何でしょうか。

 それは、自分とコピーが同じものかどうかを認識しているかどうか、つまり「自我」と「自己ー非自己認識系の有無」だと思われます。

 この能力は、人間をはじめ生物の生存と繁栄にとって不可欠であり、免疫システム、恒常性維持、生殖など、様々な生命活動に関与しています。また、分子レベル、遺伝子レベル、細胞レベルから個体レベル、集団レベル、個体群レベル、種レベルと様々な階層で自己複製と自己‐非自己認識が認められます。

 R・ドーキンスの言う「利己的な遺伝子」もその「ヴィークル(乗り物)」である生物個体も、神すなわち自然の中では等しく主体を持たない神の属性の一部です。神の前では等しく自己複製子であり、自己ー非自己認識系です。

 そして、自己と非自己の分断と対立、「われわれ」と「やつら」からなる人類史の真っ黒な部分も、基本認識はここから誕生します。これも神による必然です。

 「自我」については、スピノザによれば、人間もまた、コナトゥスによって、自らの存在(個体)を維持し、より完全な存在(個体)になろうとする努力のことだと記されています。


 しかし、人間(個体)のコナトゥスは、こと自己保存に関しては有限であり、不完全です。人間(個体)の人生は、神によって「絶対に思い通りには完全になれないし、死にたくないと思いながら死ぬ」ことに決定付けられているのです。残念でしたー。

 なんで死ぬことに怯え、苦しむか。それは人を含む生物個体は「自己保存」のための「自我」を持っているから、ということになります。これもコナトゥスを構成する重要な要素なので、避けては通れません。

 しかしスピノザは、「真の幸福を手に入れるためには、人間は有限なコナトゥスを超え、無限なコナトゥス、つまり神の愛と一体化しなければならない」と説きます。意味不明です。

 脱力系スピノチストとしては意味不明だしめんどくさいし多分無理なプロセスなので避けて通りたいです。神の愛と一体化することのために人生を消費するのもなんだか人生の自己目的化なんじゃないかと思っちゃいます(神から見れば人間一個体の人生なんて自己目的以外の何物でもないのですが)。

 神(すなわち自然、自然の法則)の愛との一体化とは何か。

 スピノザによると、神の愛とは、単なる感情ではなく、能動的に全てのものに働きかけ、創造し、維持する「力」です。神は無限の愛、無限の力によって、世界を造り、動かし続けています。

 神の力との一体化。それは有限な個体が、有限な自我の範囲を神の領域全てにまで広げる努力です。個体としての自分は失われても、複製された自己の存在に意義を見出し、自我を広く移入することで心の平安が得られます。

 またさらに、「われわれ」だけではなく「やつら」、自己ではない非自己も神の一部と認め、その存続する時間と空間を祝福しようとする努力によって、魂が救済されるのです。

 自分が死んでも、鳥は渡り、花は咲き、季節は巡る。

 これが脱力系スピノチストが到達した境地です。
 
 そこまで自我を広げられれば、有限な自己も無限な自然と一体化した幸せな存在となれるはずです。たぶん。

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