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【論理とは・論理的とはどういうことか】『論理的思考とは何か』(渡邉雅子 岩波新書)【読書ノート】【第2話】
本記事は、『論理的思考とは何か』(渡邉雅子 岩波新書)の読書ノートである。
【第1話】のつづき。
1,そもそも「論理」とは
「論理」とは何か。哲学者・大出 晁は『日本語と論理』(講談社現代新書)で次のように規定した。
考え方にはっきりとした筋を通すこと、それが論理といわれるものの働きです。
本書はいま古書店でしか手に入らない。私は学生時代(平成初期)に定価450円(そう、私の学生時代は新書は500円で買えた!)だったのを古書店で250円で買った。しかし25,000円くらいの価値はあると思っている。Amazonではいま149円って・・・
そして、私が30年来ずっと愛用している国語辞典にはこうある。
①思考の形式・法則。議論や思考を進める筋道、論法。②認識対象の間に存在する脈略・構造。
やはり「筋道」という言葉が、「論理」を定義づける重要なワードであることは間違いない。
ここを踏まえて、
渡邉雅子氏の「論理には文化的側面がある」という記述を振り返る。
思考の筋道を「論理」と呼ぶなら、そこには文化によって異なる特徴が見られるのは、自明のことであるように思われる。あとで私の実体験について語りたい。
筆者の主張を正しく読み取るために、重要なポイントを押さえておこう。
それは、
そういう側面もある
ということ。
本文の「はじめに」において、重要な記述がある。
本書はこれらの問いに、論理的思考が世界共通で不変という考え方のもとになった論理学の「形式論理」に対して、論理には文化的側面があることを指摘し、
万国共通の、地球上の人類のほとんどが「ちゃんと筋道が通っている」と認識できるものを「形式論理」、それとは別に、論理には、文化的側面がある、と筆者は主張し、それを「本質論理」と呼ぶ。
ここをしっかり押さえておかないと、的外れな批判が生まれることになる。すでにいくつかそういう発言を目にしてしまった。
日本人の「ちゃんと読めない病」は、確実に進行しているのかも知れないし、一部が悪目立ちしているだけかも知れないし、わからない。
でもX(旧Twitter)を筆頭に、日本の国語教育・道徳教育の敗北を認めざるを得ないような危機感は私の中では日に日に増している。
そういう私は読解力が高いのかと問われたら、誰と比較するかによる。外国語で書かれた学術論文を読み解く力はとても弱いし、古地図も好きだが読解力に乏しい。楔形文字の読解はさっぱりだ。でも古文、特に上代文学の読解に関しては、徹底的に仕込まれたから、普通の人よりは読める。
読解力の定義も難しくて、これはまた、改めて記事にしたい。いま少しずつ下書き中。
さて話を元に戻して、次に進む。
「論理」の定義は、大出説を元にして、私は長い事「筋道がちゃんとしている」という意味合いで用いてきた。
ところが筆者によれば、その「筋道がちゃんとしている」という判断を、何を基準に行うか、実は「学問分野によって違うのだ」という。
・論理学
・レトリック
・科学
・哲学
これが筆者の提示する「四分野」である。私ははじめ戸惑った。この4つを並立させて検討することが果たして妥当なのか?
そもそも、哲学にも、論理学にも、あるいは科学にも、それぞれの分野においてレトリックは用いられるし、論理学も哲学や科学の分野において、欠かせない要素で、そんな明確な線引きなどできるのかと。
しかしそれは杞憂だった。
その点もちゃんと踏まえながら、各領域における「論理」とは何なのかを見事に整理されていた。
序章4ページ~5ページにかけての表は、ポスターにして貼りたいくらい参考になった。
・論理学=形式の論理
・レトリック=日常の論理
・科学=法則探求の論理
・哲学=本質探求の論理
もちろん、これについて賛否はあると思う。そんな単純なものではないと。
ただ、大出がいう「はっきりと筋道を通すこと」の通し方は、実は学問分野によって違いがある、という指摘は、「そういう側面もある」という点で、間違いのないことである。
2,「論理的」とはどういうことか
これについて、まず渡辺氏の言葉から引用しよう。
「論理学的」には、
論理的であること=矛盾のないこと
わかりやすい。
「レトリック」としては、
場の目的に合致した「常識」と「具体例」の効果的な適用
とある。ここで私は疑問を抱いた。
私の認識では「レトリック」=「修辞」だった。
しかし本書では「レトリック」=「説得」であるという。
定義が違う?
いや、これも私の無知からくる疑問だったことがわかった。
学問としての、本来的な意味でのレトリックは、古代ギリシアの時代から始まり、アリストテレスが体系化したものが知られている。
私の中で「レトリック」という言葉の定義が書き換えられた。
学問分野としての「レトリック」いうのは、
比喩・倒置などの具体的な表現技法の研究
相手の感情に訴えかける手法の研究
論理的な説得の技術の研究
主に大衆に向けて、どうやって説明し、どう納得してもらうか、という技法の学問だ。本書では主に3について述べている。
「科学」については、
原因と結果の説明の整合性及び経験(物理現象)との整合性
を「論理的」と判断する。これはすぐに納得。
と・こ・ろ・が、
「哲学」では、引っかかった。
文法的に正しい言葉の使用と演繹的推論の適切な使用
待てい。
「文法的に正しい言葉の使用」という点でいえば、哲学に限らないのでは?とも思った。
語彙だってそう。用いる言葉の定義がちゃんとできていなければ、どんな分野だって学問として成立しない。
いや、哲学は全分野をまたいで関わってくる学問だから・・・
という反論は、よくわかる。
ただ、正しい文法を用いることが哲学だと断言されると、もやっとする。
それで、読み進めていくと、筆者は「古代ギリシャの哲学」=「西洋哲学」と捉えているフシがある。本当はもっと複雑で豊かなのだけれど、筆者はそれを承知の上で、あえて単純化するために便宜上そう捉えて、「哲学にはそういう側面もある」ということでの分類なら、それで理解しよう。
3,「論理」や「論理的であること」が文化によって違ってくる実体験
同じ文化を持つはずの日本人同士でも「ある人たち」と「そうでない人たち」との間には、「論理的であること」に大きな差異があることは、私には実体験として、ある。
空手道場。5歳のころから、試合で勝つためだ、強くなるためだと、竹刀でどつき倒された。臀部を中心に、竹刀の痕が取れず、お風呂が苦痛だった。
しかしそれが「精神を鍛え、肉体を磨く論理」として、まかり通っていた。休憩時間も水分補給は禁止。
そうやって「体罰を与えること」=「教育」として認知されていた。
私が道場の代表になったとき、竹刀を含む体罰は全廃止。水分補給とトイレ休憩を必ずはさむことにした。保護者にざわつかれた。生徒たちには喜ばれた。
担任の先生。生徒をビンタすることは、当たり前の光景だった。
部活動。中学ではバドミントン部だった。バドミントン部というと、さわやかなイメージだが、実情は違った。
まずウォーミングアップに、マラソンコース約1.5㎞を3周走る。
先輩の機嫌が悪いと10周になることもある。
その後、腕立て200回×3セット。腹筋200回×3セット。スクワット200回×3セット。楽々こなしていると殴られ、スクワットが1,000回に増えることもある。
だから、すごく苦しそうにやらないといけない。実際苦しいのだけれど。中にはフィジカルモンスターみたいなのがいて、楽々できるようになっていたけれど、苦しそうにしないと殴られるからと、必死な演技をしていた。
M井先輩なんて、被差別部落に住んでいて、在日朝鮮人だという理由で、後輩の我々と一緒に基礎体力づくりばかりやらされて、1,000回のスクワットを強制させられていた。これはもう、暴力・虐待・いじめ以外の何ものでもない。
中学卒業後1度もお会いしていないが、M井先輩は、先輩たちの中で唯一、みんなに優しくて、思いやりのある、素晴らしい人格者だった。思い出すだけで涙が出てくる。
目的は、苦しめることが目的で、先輩たちのニヤニヤした顔はいまも忘れない。そうして後輩をつぶしていかないと、自分がレギュラーになれないからだと、大人になって教えてもらった。こら。
先輩たちが、先輩として生き残るための論理。先輩たち以外は到底受け入れられない論理。それを中学生の私(たち)は「まわりがみんなそうだから正しい」と信じ込んでしまっていた。
顧問の先生は、禁煙であるはずの体育館の中でずっとあぐらをかいてタバコを吸っているだけだった。山盛りの灰皿は、毎日じぶんでせっせと片づけていたので、そこだけは評価できた。
でもそれが「イヤイヤ顧問を引き受けた先生が仕方なく顧問を続けるための論理」だったのかも。何が悪い?という態度だったから。
部活でも、水分補給は一切禁止だった。精神が弱くなるからだってさ。
ところが私たちの代が先輩になったとたん、そういうのはダメってなって、顧問の先生の交代とともに「文化」は変わった。不満を言っている仲間もいたが、私はホッとした。
空手の方は相変わらず、苦しければ苦しいほど、強さへの道が拓ける、という常識がまかり通っていた。
そもそも「文化」が、そういう文化だった。ガマン大会で、辛抱したヤツが偉い。苦行に耐え抜くことが目的で、それこそが強さを求める者たちの「論理」だった。それが正しいと信じ込んでいた。
そのおかげかわからないけれど、私は今年で53歳になるが、ある大学生から、
「どんなトレーニングしたら50代でその肉体を維持できるの?」
と聞かれた。彼はトレーニングを日々怠らず、食事にも気を付けて、「細マッチョ」をキープすることに余念がない。自分の体型を維持すること=男を磨くことらしい。彼はそれで毎日が充実していて、幸せなんだから、誰に何を言われる筋合いも無い。
彼はこの春から介護の道へ進む。その鋼のような肉体と、人なつっこく、優しい人柄は、必ず現場でお役に立てる。素晴らしい事だ。
いま私は何のトレーニングもしていないし、あえていうなら自転車以外の乗り物に極力乗らない、という程度である。
しかも服の上からは、よく見えても、実は体重を一気に落とした過去があるので「見せかけ」だけである。
それでも同年代の平均よりも少しばかり体力があるのは、きっと10代の頃に「筋が通っている」・「何の矛盾もない」つまり「論理的に正しい」と信じ抜いて、試合に勝つために、強くなるために、必死にトレーニングしてきた結果なもかも知れない。
どんなに理不尽な暴力にも、耐え抜いた。20人くらいから集団リンチを受けたこともある(もちろん名目は「指導」である)。
その時間は、まったく無関係、ということはないと思う。
ただ、それでよかった、なんて少しも思っていない。当時は正しいと思っていたことが、時代の変化や自分の変化と共に、変わる。
だから、筆者のいう「論理には文化的側面がある」という主張は、すっと腑に落ちることができた。
3,以上を踏まえて「文化的差異」とはどういうものかを【第3話】で。
本記事の目的は「論理」や「論理的」という言葉の定義を、まずはしっかりと抑えておきたいという目的があった。
私がこれまで「論理」や「論理的」と思い込んでいたのは、冒頭で紹介した大出晁の『日本語と論理』(講談社現代新書)の影響が大きかった。
もちろんそれも「論理」に違いないのだし、決して間違ってはいないのだけれど、問題はその中身や目的が、ジャンルが異なれば変わるのだ、という事を、改めて思い知った。
先に進みたい。
【第3話】では、「合理」・「合理性」・「合理的」というお話。これも文化による差異があるのだという。
つづく。
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