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西園寺さんは家事をしない11話で感じた家族の極意
大好きだったドラマが終わってしまった…1度書いた西園寺さん。
西園寺さんらしい、ワクワクポジティブな終わり方で、観ていてスッキリした。11話の感想を書いていこうと思う。
私が特に印象に残ったシーンは、西園寺さんのお母さんが出ていった真相を語った後の西園寺さんとのやりとり。お母さんは、家事育児をやりたくなかったのではなく、やりたいことが自分の中でなくなっていくことに焦燥感を抱き、家を出ていくことを決意した。「お母さんがちゃんと言えば良かったんだよね、ごめんね」と言われた西園寺さんは「私たちが聞こうとしなかったの。ごめん」とお母さんを抱きしめる。
このシーンを観て、子どもは親の我慢に責任を感じるのだと驚いた。思えばルカちゃんの家出の原因も、ルカちゃんが自分が邪魔だと思われていると感じたことだった。「子どもは大人が思っている以上にいろんなことを理解している」とよく言われているが、責任も感じてしまうのだな、と素直に驚く。
大人がやりたいこと、というかありたい姿を考えずに、周りの環境の中で疲弊してしまえば、当然、それを子どもは敏感に感じる。そして「私がいるせいではないか」「私のせいで苦しんでいるのではないか」と大人が思っている以上に感じているのだろう。
私の実家は典型的な「察する」文化の家だった。母の顔色を気にして過ごしていたし、母の機嫌が悪ければなぜ不機嫌なのかを考えた。私は大学生の時に一人暮らしをしたいと思ってたが「兄弟も多いし、どうせダメだろう」と言わずに終わった。わがままを言うことが許されないと考えていたのだ。
夫と結婚し、お互いが言いたいことを言い合ってる義実家にカルチャーショックを受けた。今でも夫に「そんなの、お母さんに直接言っちゃえば良いじゃん」と言われることでも、なかなか言う勇気が持てない。夫との暮らしに慣れると、自分の実家に閉塞感を感じるようになった。
なんでこんな風になったかというと、母も祖母に対してそうだった。そして母も自分のやりたいことを言わなかった。家族や親戚のために時間や手間を使い、「自分ばかり大変な思いをしている」と文句を言っていた。母がやりたくないことをやっていると分かったから、私もやりたいことを出せなかったのかもしれない。それは決して母だけのせいではない。文句を言ってばかりではなかったし、時代もそういう時代だっただろう。自分自身の性格にも問題があったと思う。
しかし、私は子どもたちにそんな思いをしないで過ごしてほしい。それは母である自分自身が我慢して、子どもの希望ばかりを通すことでは実現しない。西園寺さんみたいに大人も子どもも希望を出して、どちらも叶う「ウルトラC」を探す、そんな方法を探す姿勢でこそ、「希望を言っていいんだ」「希望を聞いていこう」と言う関係性が実現するんだと思う。
そのためには、まず曖昧になっている「私のやりたいこと」が何かを考える時間を作ることだと思う。1人だったら何をしたいか。なんの制約もなかったら何をしたいか。今度、noteに書いてみようと思う。
そう思うと、私の気持ちは少し軽くなった。