
『パン屋再襲撃』村上春樹
実をいうと私は村上作品を読んだことがなかった。そして、そんな私が今回読んだ作品は『ノルウェイの森』でも『海辺のカフカ』でもなく、『パン屋再襲撃』という短編集だった。
きっかけはポッドキャスト
朝の通勤時に聴くことが習慣化しているポッドキャストで、読書会をしている。『パン屋再襲撃』はそこで読書会のテーマになっていたので読んでみた。
余談だが、今年は、このポッドキャストに取り上げられている本を読んでいこうと考えている。出演者の皆さんの見解を聞いてから本を読むと、自分が一人で考えるよりも遠くに行ける感覚があるのだ。今まで「難しそう」「分からなかったらどうしよう」と思って手をつけれなかった村上春樹も、このポッドキャストのおかげで読めた。自分の世界を広げてくれて、感謝だ。
この話はこんな話
主人公は新婚で妻と暮らしている。ある日、夜中の2時に大きな空腹感に襲われ、2人は目が覚める。何とか空腹を満たそうとしているその時に、主人公が昔パン屋を襲撃したことを話したことで、今度は夫婦でパン屋を再襲撃することとなるーーー。
この物語は「選択できる人と選択できない人の話」だ
この物語は、こんな風に始まる。
パン屋襲撃の話を妻に聞かせたことが正しい選択であったのかどうか、僕にはいまもって確信が持てない。たぶんそれは正しいとか正しくないとかいう基準では推しはかることのできない問題だったのだろう。つまり世の中には正しい結果をもたらす正しくない選択もあるし、正しくない結果をもたらす正しい選択もあるということだ。このような不条理性──と言って構わないと思う──を回避するには、我々は実際には何ひとつとして選択してはいないのだという立場をとる必要があるし、大体において僕はそんな風に考えて暮している。起ったことはもう起ったことだし、起っていないことはまだ起っていないことなのだ。
働いて感じていることは、「私はなんて選択ができない人間なのだろう」ということ。仕事はさまざまな人が関係している。自分の選択が人に不利益をもたらしたり、迷惑をかけたりする。そんな時に、自分がどのように考えてその選択をしたのかを説明できない。自分の考えは違かったのだが上司に指示されたのだ、と考えてしまう。この本に書いてあるように、実際に何ひとつとして選択してはいないのだいう立場を取りがちなのだ。
この物語は「選択できる人」と「選択できない人」が対比的に描かれている。
主人公と妻。主人公がパン屋を襲撃してから、呪いのようなものをかけられたという。その話をしても主人公は呪いを解くために何かを選択しようとはしない。そこで妻が「パン屋を再襲撃して呪いを解こう」と提案する。主人公は気乗りしていないが、妻を止めるわけでもなく、妻の選択に身を委ねながらマクドナルを襲撃していく。ちなみに、この「呪い」について、私は「選択できなくなったこと」だと思う。1度目の襲撃まで主人公は「労働をせずに空腹を満たす」ことを考え、パン屋の襲撃を選択した。しかし、1度目のパン屋襲撃の後、店主の言い分に従いパンをもらえたことをきっかけに他人の選択に身を委ねる楽さを知ったのではないだろうか。そこから選択を他者に介在している主人公の様子が窺える。
また1度目に襲撃したパン屋の店主と2度目に襲撃したマクドナルドの店主も対比的だ。1度目のパン屋の店主は、主人公扮する強盗が来た時に「音楽を聞くこととパンを交換しよう」と提案する。それに対して2度目のマクドナルドの店長はマニュアルに書いてあることから大きく外れないように必死なのだ。自分の選択に他者が介在しているかどうかを描いている。
主人公のイメージとして、たびたび登場する「海底火山」の件。私は、主人公の選択のあり方を示しているのではないかと考えた。自分は選択をせずに海の上を浮遊しているが、海底には自分の意思がある。それを他人事のようにみながら、自分で行く末も決めない。ただ他者が波を作るほうに行く。そんなイメージを持って読んでいた。
最後に
自分の意見をはっきりと言える人に憧れる。私は選択の不条理性を怖がり、選択をしていないと見せかけている主人公に似ているから。私は結局、「こまりさんって〇〇な人だよね」と人に言われることが怖いのだろう。責任を取りたくないということなのだろうか。選択と責任について、1度考えてみたくなった。