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【電力小説】ダムを動かす夜


第5話 ダムを動かす夜

夜を切り裂く電話

雨音が絶え間なく屋根を叩く山奥の夜。蜜柑ダム発電所の仮眠室で、スズは小さな電気ストーブに当たりながら記録簿を眺めていた。部屋は3畳ほどの狭い和室で、床下から発電機や水車の振動がじんわりと伝わってくる。

「この音、慣れないと落ち着かないな……。」
スズは静かな部屋で独り言をつぶやいた。仮眠室は寒々しく、畳にはシミが目立つ。ここで何十年もダムを見守ってきた技術者たちの気配が感じられるようだった。

その時、突然電話のベルが鳴り響いた。スズは驚き、慌てて受話器を取った。
「佐藤です!」
受話器越しに管理所の怒気を含んだ声が飛び込んできた。
「遠隔制御が動かん!機側盤でゲート開けてくれ!」

スズは一瞬、頭が真っ白になった。
「機側盤……ですか?」
「現場で操作する盤や!わからんなら、まず確認しろ!」
強い口調に、スズは「は、はい!」と返事をし、電話を切った。

雨音の中、スズは雨合羽を取り出して袖を通した。初めての現場操作に、不安が胸を締め付ける。「ちゃんとできるのかな……。」心配を抱えながらも、スズは仮眠室を後にした。


雨の中の機側盤

蜜柑ダム発電所の外に出ると、冷たい雨が容赦なくスズの合羽に叩きつけてきた。水銀灯の白い光が雨粒を反射し、足元のぬかるみをぼんやりと照らしている。遠くから響く水流音が重く耳に届き、巨大なダムの存在感を際立たせていた。

「これが私の仕事……。」
スズはそう言い聞かせながら、足を進めた。

赤茶色に塗装された機側操作盤は、ダムの脇に静かに佇んでいた。巡視では何度も見ていたが、実際に操作するのは初めてだ。スズは手で扉を開け、内部を確認した。ガラス窓の奥には開度計や流量計が整然と並び、「開」「閉」「停止」のボタンが設置されている。

「これを動かせば、あの巨大なゲートが動くんだ……。」
スズは緊張で震える手を押さえ、「開」ボタンを押した。低い唸り音が響き、ダムゲートがゆっくりと動き出す。足元から伝わる振動がスズの心拍数をさらに高めた。


慌てた「停止」

ゲートを開け始めたスズは、管理所の指示で指定された開度に達したら「停止」を押さなければならない。しかし、雨音と振動に圧倒され、計器の数値を正確に読み取ることができない。

「もう止めるべき……?」
スズは心の中で自問しながら迷っていた。その時、ポケットに入れていた携帯が振動する。合羽の内ポケットから取り出し、画面を見ると管理所からの着信だった。

「佐藤です!」
「開度超えるぞ!早く『停止』押せや!」
怒鳴る声に、スズは慌てて「停止」ボタンを押した。ゲートが徐々に動きを止め、水流音が落ち着きを取り戻す。スズはようやく胸を撫で下ろした。


雨音の中の達成感

操作を終えたスズは機側盤の扉を閉じ、ダムゲートを見上げた。雨に濡れながら動く巨大な構造物が、今は静かに止まっている。その事実がスズには何とも言えない達成感を与えた。

「これを動かしたのは、私の手なんだ……。」
そう思うと、自分が技術者としてほんの少し前に進んだ気がした。

仮眠室に戻ったスズはストーブの前に座り込み、足元から伝わる振動音に耳を澄ませた。雨音は続いていたが、スズの心は少しだけ穏やかだった。「次はもっと落ち着いてやろう。でも、少しだけ成長できた気がする。」

蜜柑ダム発電所の静かな夜、スズは技術者としての自信を少しずつ積み上げていった。


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