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第2回: 現実世界の向こうの現実へのアクセス

『LIFE- REMIXER』は小川公貴氏のテキストサイト『Bad cats weekly』にて連載していたものの再録・加筆修正を施したものです。無料で最後まで読めますが、テキストを購入いただけると追記をお読みいただけます。

「現実からディスプレイの向こう側の作品世界と関わる」これはプレイヤーがモニターを介してビデオゲームの作品世界に関わるという構造を利用した仕掛けだ。この構造を打ち出す手法は、とくにメタフィクションで顕著に見られた。

そんな構造について。自分にとってのファーストインプレッションはちょっと気恥ずかしいものだった。『Undertale』や『MOTHER2』みたいにメタを押し出しているものじゃない。ひとめ見れば、だれもメタフィクションとは思わない。SFCの『ワンダープロジェクトJ 機械の少年ピーノ』だ。


これは何も知らない機械の少年ピーノを、プレイヤーがテレビのモニターを通して物事を教えていくという育成ゲームだ。ピーノはモニターの中で生きているかのように自分で動いたりする。そういうゲームデザイン上、ピーノや他の登場人物がプレイヤーである自分のほうを向いて直接話しかけてくる。

それはゲームはゲームの世界として没頭したいというのとはちょっと違う間合いがあって、プレイヤーである自分をゲームの世界から意識させられる。それがすこし恥ずかしいと思いながら遊んでいた思い出がある。

今はこの関係を生かすメタフィクションで溢れかえるようになった。しかし実際のところ、ビデオゲームにとってのメタフィクションとは「作品を作品として没入する」ことが当然の前提である映画や漫画、小説といったメディアを前提にしているにすぎない。

実際のところはビデオゲームのチュートリアルで「Aボタンを押すとジャンプします」という現実に対しての指示がある瞬間、ゲームのルールが露出する瞬間があるかぎり、映画や漫画を前提にすればすべてのゲームはメタフィクションの側面を見せるのだ。

ビデオゲームは現実世界と繋がるものとして架空世界に関わるものか、現実世界を忘れて架空の作品世界に没頭するものか、ゲームによってプレイヤーに要求するスタンスが違ってくる。

だが近年では現実世界と地続きとして、ある現実に関わるという作品がしばしば見られるようになった。気恥ずかしいと感じたのは昔のことであり、今、ディスプレイの向こう側は緊張感をもたらす。向こう側が、現実の紛争地帯というのがしばしば見られるようになったからだ。


『Bury me,My Love』というゲームがそうだ。Steamでもリリースされているが、iOS/Androidのストアから購入し、スマートフォンというインターフェースでプレイしたほうがいいだろう。なぜならこのデバイスにもっとも適応したゲームデザインだからだ。

通話やメッセージ機能、通知そしてSNS……そうしたアプリはスマートフォンの向こう側の世界とアクセスする手段となった。『Lifeline…』シリーズはその機能を生かしたアドベンチャーゲームとして評価された代表的な例である。『Bury me,My Love』はそのゲームデザインを応用し、スマートフォンの向こう側のある現実に触れさせる。何しろゲーム開始時の冒頭に「この作品は現実の出来事をモデルにしている」という一文が表示されるのだ。

プレイヤーが触れる画面の向こうの現実とはどこか? シリアだ。

本作はシリア難民の女性Emmaとメッセージ機能を使って会話していく。厳密にはプレイヤーそのものが会話するのではなく、Emmaの夫を演じて会話をしていくゲームなのだが、普段の生活でスマートフォンにEmmaからのメッセージの通知を受け取るのは現実の自分だ。シリアからヨーロッパへ向かう旅路で、彼女は本当に正しい道を行こうとしているのか? プレイヤーはメッセージを選択肢を選び、Emmaの行く末を見守る。

今年、『ラッカは静かに虐殺されている』という映画でスマートフォンを使い、SNSでシリアの現状を世界へ告発していくというドキュメンタリーが公開された。『Bury me,My Love』はある種その緊張感にも近いかもしれない。だけど『Bury me,My Love』の意外な感覚は、Emmaと同じ時間を過ごすコンセプトもあるのか、メッセージのやり取りのすべてが血生臭いものではなく、どこか日常的な感覚と地続きであることだ。

Emmaのメッセージは悲壮感も時にはあるが、気軽に絵文字も交えた内容には日本とシリアの差を一瞬忘れさせてしまうかのようなムードがある。


Path Out』もそうだ。シリアにいる彼らが見たり聞いたりする趣味は、実は自分たちと変わらない。彼らの真後ろに戦火があるという差があるだけで。これはRPGツクールで制作された、シリアで起きた内戦から逃れる少年の物語だ。

だがこのゲームの特徴はそこではない。制作者のAbdullah Karam氏が実写で登場し、ゲームプレイの要所で状況についてを直接解説していく。そう、この作品はAbdullah Karam氏の自伝的な内容を描いている。彼が少年時代に起きたシリア騒乱から逃げ出すまでがpart.1として無料で公開されている。

シリアで少年時代を過ごしたAbdullah Karam氏の生活はどんなものなんだろうか? ここでも『Bury me,My Love』に近い感覚がある。向こう側の現実が、むしろ自分たちと変わらないことを教える。

子供のころのAbdullahは普段からXboxのゲームを遊んでいて、部屋にはアメリカ最大のプロレス団体WWEのポスターを貼っている。自分と大きな違いはないのだ。街で戦争が起き、電力が吹っ飛ぶせいでゲームを中断してしまうというトラブルでさえ、自然災害によって近しいトラブルがある日本と重ねて見えるようにも感じてしまうシークエンスもある。詳しい彼のインタビューは、4Gamerにて徳岡正肇氏が行ったものが公開されている

そこには、国際ニュースとして報道される紛争地シリアという印象とは別の現実がある。自分のようなビデオゲームもプロレスも好む少年がそこにいる。『Bury me,My Love』も『Path Out』もシリア内戦という社会的背景を描くというより、社会的背景による先入観によって想像することのできなかった同じ年ごろの女性、同じ趣味を持つ少年の顔を知ることができる。それこそが、もっとも大きな体験だ。

かつてビデオゲームは作品世界のなかでだけ完結するものであり、現実とは関係のないものだった。しかしここ20年でメディアにまつわる環境が変わった。スマートフォンも、インターネットも当たり前になる中で、メディアを介してある現実にアクセスすることが当たり前のリアリティとなった。これらの作品は、ある現実にアクセスするという体験を持つ。

ビデオゲームは映画や小説といった架空の世界という前提ではなく、むしろ現実でインターフェースを操作するプレイヤーのものだ。むしろスマートフォンもネットも揃う現代はその前提はより強化されているといえる。ディスプレイの向こう側の現実に触れるとき、そこには自分の考えているよりも、自分と同じような人間が生きていることを知る。

●連載の他の回はこちらから


イスラエルによる虐殺が始まったいま読み直すと息が止まる

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