見出し画像

8. 帰国後の見舞い& 医師家系の看取り <父を看取れば>

10時間余の空の旅の後、日本の実家にたどり着いた。体は疲れているものの、なかなか寝付けなかった。次の日の見舞いのことを考えてしまったからだ。

私が恐れていたことは、「父の手が握れるだろうか」ということだった。小さい頃からモラハラ気味の父を恐れ、極力避けてきたので、小学校を卒業する頃から父との接触(肩や手に触れることさえ)は一切なかった。高校生の頃、母方の祖父の葬儀の帰りに電車で隣に座ってしまい、腕が触れ合って”ゾッ”としたことを思い出した。大人になってからは挨拶程度はしていたが、父の顔さえ(嫌悪感から)なかなか正視できなかったのだ。

しかし、そんな心配は杞憂に終わった。翌日、病室に入った私に父は弱々しいながらも満面の笑みを浮かべて「よぶ..ぎ.ど.え(よく来たね)」と言った。母が「そうよ、休暇をとって日本に帰ってきたのよ、パパ」と父の手を握った。気づくと私も、もう一方の手を握っていた。一回り小さくなった父、体にいろいろな管が繋がれ、おムツをつけた父...。

「大変だったね。大丈夫?」と言うのが精一杯だった。父は「らいじょーぶ」と回らぬ呂律で言い、私の手をしっかりと握り締めた。「けっこう力が強いでしょ」と涙目の母。回復(?)を一生懸命アピールしようとする父は、もう寝たきり患者であることは見まごうことはなかったが、私は「そうだね」と精一杯の笑顔を返した。

30分程父のベッド脇で過ごした後、母とともに担当医師と面談した。40代半ばであろう医師は、いかにもボンボンという感じの人で、話し上手にはほど遠かった。無表情でとつとつと「回復の可能性はほぼない」ということを話した。少し冷淡にさえ見えた彼の態度が変わったのは、私が質問をし始めた時だった。非常によく調べた上で、礼を失せず、核心的なことを訊いている、ということが伝わったのだ。

私は、ついにメインの質問をした「経鼻胃管を抜いてもらえますか」。医師は長いセンテンスを駆使して「法律に関わることで、それはできない」と答えた。私は、「絶対に後で法に訴えないし、それを文書にします。自分の経験から”アレ”がどんなに辛いかを知っているので、回復の見込みのない父にこれ以上の苦痛を味あわせたくない」と喰い下がったが、医師の答えは変わらなかった。

「私の在住国では、そもそも終末期の人への経管栄養はしません...勿論、ここは日本ですし先生のお立場も理解できます。しかし、家族としては辛いです」とつぶやくと、医師はふと次のようなことを語った。
うちは、祖父、父と3代に渡って医師をしています。思い返せば、祖父母、父とも自宅で介護・看取りました。
「胃ろうや経管栄養はなさったんですか?」という私の問いに、医師は一瞬の間を置いて答えた。「いいえ、しませんでした」と。

私はこの医師の「正直さ」に感謝した。「患者に適用することはできないが、自分の家族には苦痛をとるだけの看取り、自然な死を提供してきた」ということを語ってくれたからだ。本人は気づかなかったのだろうが、彼は「それは、この日本という国において、代々医師という家庭の者だけが知る・できることだった」と暗に言ったのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?