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自分を何かに捧げること


プロフィールに書いてある通り、私は内向的な子どもでした。友達が欲しくても「私なんかがこの人の友達になっていいんだろうか、迷惑ではないだろうか」などということをウダウダ考えて、自分からは声をかけられない子どもでした。

英語をそれなりに頑張ってきたのは知っている人が多かったので、語学の仕事しているのは驚かれませんでしたが、「翻訳ではなく通訳をしている」というと昔の友達にはすごく驚かれます。

どうして私はこの道を歩むようになったのでしょうか?

振り返ってみると、シャイな子どもで緊張するタイプなのに、劇には出たがるというややこしい子どもでした。

子どもの頃は、きっと「何かになり切る」ことが好きだったのだと思います。

大きくなって、英語を学んで、英語をベースに仕事をしていこうと思ったのは、こちらのnoteに書いたように「日本語と英語という二つの言語を行き来すること」に魅せられたから、というのがまず大きな理由です。

でもそれが翻訳ではなく通訳だったのは、子どもの時に感じた「自分以外の誰かになりきり、自分を何かに捧げる感覚」が好きだったからかもしれません。

子どもの頃は、劇の世界を成立させるために自我を捨て、恥ずかしさを捨て、自分の全てをかけて、割り振られた役に、あるいは裏方などの仕事に取り組むのが好きだった。

今は、スピーカーの口となり耳となり、自分が果たすべき役割を夢中で果たすのが好きです。

だからきっと、私は通訳者になったのでしょう。

私にとって、「捧げる感覚」をもたらしてくれるものは他にもありました。でも、ピアノやバレエなど、多くの習いごとをしたけれど、お金をもらえるレベルまで鍛錬できたのは英語しかなかった。

消去法の部分もないではないのですが、通訳者として20年以上を生きた今、この仕事に巡り会えてよかったと心から思います。

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